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と報道されているけれども、詳しくはちょっと違うらしい。
右の腎臓を癌で一年半前に取り、半年ほど前に平滑筋肉腫という癌が見つかり、余命幾許もないと宣告されていたらしい。
「カモのがんばらないぞ」より http://www.ozmall.co.jp/entertainment/kamo2/
「確率論から言うと無茶な話らしいんだけれど、今回で根治したいと考えているよ。そのためには二通りの考えがあって、悪い所をすべて取り除くか、抗ガン剤を初めに使って、せめて胸に転移した肉腫を消して、それから一番大きな副腎の摘出を行うか。医師は後者を選択したいみたいだ。どちらにせよ、俺は戦うよ。全摘が希望なんだ」
これが絶筆かな。 西原との出会について書いている。
http://homepage2.nifty.com/jyurousya/main_Folder/column_Folder/kamo_Forder/kamo14.html
厄年というか後厄だったんだな。
こんなのも発掘というか、しみじみ読み返してみたりする。
日々まんが #26 (2003/09/30)
http://up2.viploader.net/pic2d/src/viploader2d213637.jpg
http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/women/etc/riezo/image/20061001.jpg
http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/women/etc/riezo/image/20061105.jpg
今年の正月の映像らしいが…
http://www.youtube.com/watch?v=ZtxNP0_u6ec
ところで遺影はモヒカン頭なんだろうか
ご冥福をお祈りします。
【関連】
藤原新也について(3) 藤原新也は芭蕉である
http://londonbridge.blog.shinobi.jp/Entry/287/
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%CA%C2%F4%B8%F7?
1996年出版の「AV女優」、私は文庫になった時点でしか読んではいないけれど、かなり衝撃的だった。
出版元のヴィレッジセンターのサイトに書評が集められている。
http://www.villagecenter.co.jp/book/av.html
別のところで大月隆寛氏が「これは五十年後には貴重な民族資料」と言っているが、すでに90年代の貴重な資料になっていると思う。
書評の中には「彼女たちのの実像・素顔」などという言葉もあるけれども、「AV女優が語った『自画像』」という感じだろう。 真実かどうかはわからないが、インタビュアーにそういう物語を語った90年代…
しかし、あまりの大評判のせいか、その後のAVの冒頭には、必ずインタビュー場面がつくようになった気がする。 もともとが雑誌『ビデオ・ザ・ワールド』巻末の記事だから、インタビューのスタイルが真似(?)されるのは、まっとうな流れなのだろう。 いはゆる「実用」にもなる記事だった。
43歳で下咽頭ガンの手術でインタビュアーが声を失い、アルコールによる肝機能障害を患う。
これは知らなかった。 紙で産経新聞を読んでいないから、連載に気がつかなかった。
この記事が遺稿になってしまった。
「生老病死」最後の手紙 永沢光雄氏死去 「脅えることなく慰められ」
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/art/26035/
これから3冊ほど刊行予定があるらしい。
http://www.chikumashobo.co.jp/pr_chikuma/0701/070109.jsp
声を失ってから小説を2冊出版しているので、小説も在るのかな? 過去に各種媒体に書いていたものを集めるのだろうか?
まず新聞連載が書籍化されるのだろうけれど…
その前に、何冊か読んでみよう。
ご冥福をお祈りします。
「NHK問題」武田 徹 著
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063366/
本書の終わりの方で武田氏はこう書いている。
行き着いた論旨において世間一般のNHK論とはずいぶんとかけ離れたものになったと思う。「どこの星のNHKの話か」などと揶揄されそうである。
p243
確かに、そういう印象の新書だった。
思い起こせば、文庫になった「偽満州国論」(中公文庫) を読んだときも似たような印象を持った。 「どこの星の満州国の話か」と。 ひょっこりひょうたん島と満州国を同列において考えるという視点は、それなりに面白かったが、ものすごく違和感を感じてた。
日本の公共放送のはじまりをラジオ体操という側面から探り、戦後すぐのGHQとの関係、「日曜娯楽版」の政治風刺の問題の流れは、たしかに興味深い。
しかし民放との関係は、ほとんどページが割かれていない。電波三法におけるアメリカ流とイギリス流がミックスされた経緯も、あまりにさらっと流されている。
個々のエピソードは興味深いけれど、具体的な考察からずれつつけている。
「我が軍」と呼ばずに「英国軍」にこだわったBBCを思うべきというが、BBCについての考察も実にあっさりしている
あるいは市民運動が国家と敵対することを焦るあまりに自らの党派性、共同性に縛られて公共性を失うとしたら、公然と非市民を表明するメディアへ。さらにたとえば科学者たちが自らの利益を求めて独走するとしたら、あえて非科学を標榜するメディアへ。そして果てはジャーナリズムまでが自らの組織の倫理に拘泥し、報道の公共性を見失うようであれば、反ジャーナリズムを表明することすらいとはない組織へ……。
ここでは「非国民」「非市民」「非科学」「反ジャーナリズム」といった概念が、共同体の閉鎖的な思考を乗り越え、公共性の側に自らをひらいてゆくという意味での積極的な言葉として用いられている。
p236
BBCは英国にとって「非国民」なメディアなのだろうか? などという素朴な疑問が出てくる。
この本は武田氏の日記によれば「準備をいれて3年ぐらい、実際に作業にかかりはじめて1年半ぐらいかかった」そうである。
執筆中はちょうど「NHK・ETV事件」の裁判中であり、受信料不払い運動の真っ最中だった。
事件には軽く触れる程度で、著者独特の「ずれた」視点からNHK問題を論じているのだが… それにしても「ずれ」すぎているのではないか。
第5章で『「王の声を」伝えるメディア』であったBBCが、フォークランド紛争で「我が軍」と呼ばずに「英国軍」と呼び続けたエピソードが論じられている。
ではNHKはどうなのか、たとえばイラクの時はとか、CNN・フランス・アルジャジーラの場合は…… と話が続くと思いきや「テレビ天皇制」というように、近代皇室の歴史や戦後日本論の方にずれていってしまう。
この件については前著「戦争報道」(ちくま新書)で論じているから、今回はスルーということなのかもしれないが、はぐらかされたという印象。
第6章にはGoogleについて触れた部分もある。 Googleの中立性や検索の限界を指摘し、自動ランキングシステムの外に出ることも必要ではないかと提言している。 将来Googleのランキング上位のみを注目して、調査や番組編成することへの危惧なのだろうが…
しかし、問題はそれ以前の部分ではないのか? 番組制作者がGoogle頼みになってしまうのではないか、という未来の危険性を論じる前に、もっと考える問題があるはず。
マスコミに対する不信は、ネットで各国の複数のメディアと並列して読まれ比較されるようになって、より大きくなってきた。 マスコミに無視される情報が多数有り、情報選択の偏向が明らかになったのも一因だ。 現状は、視聴者がネットを通じて見ている情報を、何故見えない振りをするのか(本当に見えていない可能性もあるが)が問われているのではないか?
ネット=Googleに頼る危険性を論じる前に、そもそもネットのメリットさえも活用せずにいる現状があるはず。 そこあたりを無視し、先走って危険性を論じているのではないか。 「どこの星のNHKの話か」と感じる部分だ。
そもそも第6章は、受信料を払うことで視聴者がNHKに対してモノをいう「権利」が発生するのではないか、という考察から始まっている。 ネットで異議申し立てができるという流れの中で、Googleなどの話が出てくる。
話のスジが違うのではないか? 受信料問題からGoogleの問題へと、奇妙にテーマがずれてしまっている。
個々のエピソードは面白いが、半分以上が「机上の空論」という読後感だった。
それに、すでに「非国民」「非市民」「非科学」「反ジャーナリズム」のメディアは日本国内に存在しているのではないのかなぁ。
「非常識」「下品」「暴力的」な低俗番組は国境を越えている。
「風雲たけし城」は世界各国で真似され、暴力的でロリなアニメは日本名物だ。 AV嬢の写真が中国公営事業のポスターに流用されいてもいるぞ。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A3?%A6%A3?%A6%A5?%A5%F3
R.D.Laing ロナルド・デヴィッド・レイン イギリスの精神科医。反精神医学運動の中心的人物。
1927-1989年。
1927年イギリスのグラスゴーに生まれる。1951年グラスゴー大学医学部卒業。3年間陸軍軍医となった後、グラスゴー王立精神病院、グラスゴー大学精神科、ロンドンのタヴィストック・クリニックに勤務・以後タヴィストック人間関係研究所に入り、ランガム・クリニック所長を兼務。1965年反収容主義を掲げてキングスレー・ホールを開き、独自の医療実践を展開。著書『ひき裂かれた自己』(1960)『自己と他者』(1961)『狂気と家族』(1964)『経験の政治学』(1967)『家族の政治学』(1969)『結ぼれ』(1970)『好き?好き?大好き?』(1976)『生の事実』(1976)(以上邦訳みすず書房)『レインわが半生』(1985、邦訳岩波書店など)。
R・D・レインは、1970年に出版した詩集『結ぼれ』によって、まったく新しいジャンルを創造したのである。それは詩とも、劇とも、対話とも読むことのできる新しい「シナリオダイアローグ」とも言えよう。『結ぼれ』は本として成功したばかりでなく、演劇の台本になり、また映画にもなった。
心理学の歴史
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/mountain-field/Feeling-Place/history.htm
書評:『ひき裂かれた自己』
http://www.logico-philosophicus.net/gpmap/books/LaingRD001.htm
Ronald David Laing
http://en.wikipedia.org/wiki/R._D._Laing
精神分裂症は器質的障害、という見解でも有ったらしい。
ダブル・バインド理論とは非常に親近性があるらしい。
どこからコピペしたか忘れた…
わたしはなくしてしまった
なくしたって なにを?
どこかで見かけましたか?
見かけたって なにを?
わたしの顔を
いいえ
(R.D.レイン『好き? 好き? 大好き?』村上光彦訳 みすず書房)
人間は、自分が縁を切りたいと思ってもそうできない他者の補完物としてのアイデンティティを負わされているのに気づくとき、罪責感よりはむしろ、羞恥心をひき起こすように思われる。
(R.D.レイン(志貴春彦ほか訳)『自己と他者』みすず書房、1975年、101頁)
精神分析医のR.D.レインは『自己と他者』(志貴春彦・笠原嘉訳 みすず書房)のなかで、アイデンティティとは「自分が何者であるかを、自分に語って聞かせる説話(ストーリー)である」とした。
自分はこのような人間だ、という直接的な形をとるばかりでなく、〜が好きだ、〜と思う、と、普段「わたしは」という主語をつけずに考えるようなことがらであっても、〜が好きだ、〜と思う、と考えながら、実は自分自身のアイデンティティを確認しているのだ。ものごとについても、自分がやったことが、かくかくしかじかのことを引き起こした、という、自分を中心とした因果関係の物語として、理解し、把握している。
女性は、子供がなくては母親になれない。彼女は、自分に母親としてのアイデンティティを与えるためには、子供を必要とする。愛人のいない恋人は、自称恋人にすぎない。見方によって、悲劇でもあり喜劇でもある。〈アイデンティティ〉にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また、関係を通して、自己というアイデンティティは現実化されるのである。
精神分析の研究者であるロナルド・デビッド・レインによると「自己のアイデンティティとは、自分が何者であるかを、自分に語って聞かせる説話[ストーリー]である。」
つまり自分を納得させる一種の物語だというのである。しかし、これには他者の承認が必要だ。つまり、アイデンティティを維持するためには、自分の主張するアイデンティティをたえず承認し肯定してくれる他者がいなければならない。レインのことばを借りると「〈アイデンティティ〉にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また関係を通して、自己というアイデンティティは現実化されるのである。」
影響を受けたと思われる小説、コミックなど
エヴァンゲリオン第弐拾伍話のタイトルが『終わる世界』であり、その英題は『Do you love me?』であるのだけど、それはレインの著書『好き?好き?大好き?』の原題でもある。
好き好き大好き超愛してる。 舞城 王太郎 (2006/08/08) 講談社 この商品の詳細を見る |
好き好き 大嫌い 岡崎 京子 (1989/07) 宝島社 この商品の詳細を見る |
バナナブレッドのプディング (1980年) 大島 弓子 (1980/12) 小学館 この商品の詳細を見る |
メデュウサ 山岸 凉子 (1991/08) 朝日ソノラマ この商品の詳細を見る |
伝染(うつ)るんです。 (1) 吉田 戦車 (1998/11) 小学館 この商品の詳細を見る |
田口ランディのコラムマガジン★★2000.11.24
http://www.melma.com/backnumber_1926_1366212/
20代の前半に私がどえらく影響を受けた本が三冊ある。『気流の鳴る
音』(真木悠介)『引き裂かれた自己』(レイン)、そして藤原新也さ
んの『印度放浪』である。
影響を受けたものは、もっとたくさん有るだろうな。
諸星大二郎の栞と紙魚子シリーズ中にも、「顔」を落とす話が有った。
ネットの書評をあれこれ読むと、いろいろ思い当たるのがいっぱい。
大塚英志の一連の少女漫画における「内面」という言葉も、どこかレイン経由のように思えるなぁ。
岡田有希子を論じたものは、「身体化されない内的自己」と「身体化されたにせ自己」の分裂という論旨だったような記憶が…
乳の海 / 藤原 新也の透に関する記述も、かなりレインの影響が強いのではないだろうか?
ちなみに、私はまだレインを1冊も読んでいない。
ニューアカ・サブカルに若干は嵌っていて、そこには精神分析的な言説がやたらと有ったのに、レインは読んでいない。 精神分析や心理学は、あんまり好きではない分野だから、その他のものだってろくに読んではいないのだけれども。