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佐々敦行「東大落城」と一緒に借りて読んだ。
単行本だと黒白を基調とした装丁や手触りが似ている。
立松和平は、この小説を書くためにトラック2台分くらいの資料を読んだらしい。
たしかに興味深い証言が(おそらくそのまま)引用されていており、興味深いけれど…
小説としては、かなり不満が多い。
時代設定について
時代設定が西暦2026年!!
その時代は死刑が廃止され、恩赦で釈放された坂口をモデルとした主人公が、若者に事件のことを語っていくという物語。
かなり驚いた。 理解に苦しむ、というか腹が立った。
これを書いている2006年のさらに20年後。 小説の若者は大学浪人ということなので、まだ生まれていないぞ。
まず風俗描写に無理が有りすぎ。
大学浪人が壁の薄い安アパートで一人暮らし。中古のバイクで暴走し、恋人とゲーセンで体感ゲームやって憂さを晴らす。 その恋人は援助交際(?)している!
1998年(小説執筆時)にアパートを建てたとしても築28年だから、壁が薄いとなると余程の安アパートだろうし、バイクのイメージも仮面ライダーか片岡義男だ。 ゲームに至っては…
これは1998年頃の風俗と1970年代が入り交じったものだろう。
登場する若者も、単に記号としての「若者」でしかない。
死期の迫る主人公が事件を知らない若者に向かい、最後の力を振り絞って語り始めるのだが…
つまり、事件が世間から忘れ去られるために、2026年という設定が必要だったということなのだろうか?
事件は1972年、最高裁判決が93年、坂口の本も同じ年で、98年当時の「若者」にとっても充分に「過去」で有ったはずだ。
映画「光の雨」は、そういう状況を背景にしている。 映画の設定の方が、余程気が利いている。
この小説は事件発生時の「過去」と、それが忘れ去られた「未来」しか書いていない。 「現在」を舞台にしていない。
この事件については、大勢の者が衝撃を受け、論じ続け、再審請求だって進行中だったのに、そういう言葉は小説の中には何一つ無い。
この小説が書かれた1998年、著者や事件当事者は50代になっている。 (子供は作れなくもないけれど)自分たちの子供に向けて書いているわけでもなさそうだ。
見えない未来の若者(孫の世代だろうか?)に向かって、「事件を総括した」というアリバイ作りをしているように見えてしまう。
事件当事者たちの手記は「現代」の人に向けて書かれている分だけ、まだマシに思える。
主人公について
主人公は坂口弘をモデルにしており、基本的に「あさま山荘1972」の記述・視点をベースにしている。
しかし、出所後に支援者が誰もいない。 事件の詳細を後世に残せずにいる。 誰でもいい、とにかく死ぬまでに誰かに聞いてもらいたいと焦る「玉井」という人物像は、坂口弘に対してかなり失礼ではないのか?
そもそも山岳アジトで、過去の活動から生い立ちに至るまで自己批判と総括をやり続けた事件であり、彼らは逮捕拘留後も獄中や獄外でそれを延々と継続している。
逆に言えば、そういう総括ばっかりするような人々だったからこそ、この事件が起こったとも言える訳なのだから、80歳になり、やっと若者に語りかけることが出来たという人物像には、かなり違和感を感じる。
登場人物
様々な人物や霊魂、銃までが主人公の口を借りて語るという構成にも違和感がある。
連作小説という形をとって主人公を変えても良かったのじゃないか?
何故、一人にのみ語らせるのか?
それこそ主人公の経験だけを書くという方法もあるだろうに。 ベースにしている坂口弘「様山荘1972」では、見てきたようなフィクションは書かなくても、充分に事件の概要・個々の人物像を推測できる手がかりが多数有った。
上杉和枝(永田洋子)の語りの語尾が「〜だわ」「〜よね」となっており、読んでいてかなりイライラするが、これは、永田洋子の獄中からの手紙の文体を模したもの。
玉井潔(坂口弘)vs倉重鉄太郎(森恒夫)については、それなりに力が入っていて読ませるけれど…
黒木利一(向山茂徳)は小説家志望だったため、著者の思い入れがかなり入っているみたい。
彼らと関わった一般人の描写は少ない。
いわゆる当時の「労働者」は、パートのおばちゃんくらいしか出てこない。
シンパの恋人とか、狭い世界のみでの話だ。
担当刑事・公安とかの「権力側」は、型どおりの描写。
あとは目撃情報・被害報告が、調書からそのまま引用されるのみ。
結末で唖然 (ネタバレを含む)
小説後半に、少女は「天使」とまで書かれる。 語り手の玉井の臨終を予感させるラストで、彼は「光の雨」の中に吸い込まれていく。
つまりは少女に罪を告白し、癒され救われるという詰末。
「聖なる少女娼婦に告白し、救われる」というのは、手塚治虫版「罪と罰」みたいだ。
彼らは地獄に行くに決まっている、と思うのだがなぁ。 著者は悪人正機説なんだろうか?
結果的に「極左運動を潰した」ことが善行というのなら、それもまた一つの立場だろうけど。
かなり安易に救いを導入しているように見える。
現実の坂口弘の著作活動等を、私は評価しているけれど…、この本はそうゆう立場でもないようだ。
小説の主人公は当時を回想し「夢を見ていた」などとも語っているが、著者も今でも同じ夢を見続けているのではないか。
この事件は「悪霊」の再現だと言われていた。
日本版「悪霊」として構想するべきだったが、ファンタジー小説になってしまった。
単行本だと黒白を基調とした装丁や手触りが似ている。
立松和平は、この小説を書くためにトラック2台分くらいの資料を読んだらしい。
たしかに興味深い証言が(おそらくそのまま)引用されていており、興味深いけれど…
小説としては、かなり不満が多い。
時代設定について
時代設定が西暦2026年!!
その時代は死刑が廃止され、恩赦で釈放された坂口をモデルとした主人公が、若者に事件のことを語っていくという物語。
かなり驚いた。 理解に苦しむ、というか腹が立った。
これを書いている2006年のさらに20年後。 小説の若者は大学浪人ということなので、まだ生まれていないぞ。
まず風俗描写に無理が有りすぎ。
大学浪人が壁の薄い安アパートで一人暮らし。中古のバイクで暴走し、恋人とゲーセンで体感ゲームやって憂さを晴らす。 その恋人は援助交際(?)している!
1998年(小説執筆時)にアパートを建てたとしても築28年だから、壁が薄いとなると余程の安アパートだろうし、バイクのイメージも仮面ライダーか片岡義男だ。 ゲームに至っては…
これは1998年頃の風俗と1970年代が入り交じったものだろう。
登場する若者も、単に記号としての「若者」でしかない。
死期の迫る主人公が事件を知らない若者に向かい、最後の力を振り絞って語り始めるのだが…
つまり、事件が世間から忘れ去られるために、2026年という設定が必要だったということなのだろうか?
事件は1972年、最高裁判決が93年、坂口の本も同じ年で、98年当時の「若者」にとっても充分に「過去」で有ったはずだ。
映画「光の雨」は、そういう状況を背景にしている。 映画の設定の方が、余程気が利いている。
この小説は事件発生時の「過去」と、それが忘れ去られた「未来」しか書いていない。 「現在」を舞台にしていない。
この事件については、大勢の者が衝撃を受け、論じ続け、再審請求だって進行中だったのに、そういう言葉は小説の中には何一つ無い。
この小説が書かれた1998年、著者や事件当事者は50代になっている。 (子供は作れなくもないけれど)自分たちの子供に向けて書いているわけでもなさそうだ。
見えない未来の若者(孫の世代だろうか?)に向かって、「事件を総括した」というアリバイ作りをしているように見えてしまう。
事件当事者たちの手記は「現代」の人に向けて書かれている分だけ、まだマシに思える。
主人公について
主人公は坂口弘をモデルにしており、基本的に「あさま山荘1972」の記述・視点をベースにしている。
しかし、出所後に支援者が誰もいない。 事件の詳細を後世に残せずにいる。 誰でもいい、とにかく死ぬまでに誰かに聞いてもらいたいと焦る「玉井」という人物像は、坂口弘に対してかなり失礼ではないのか?
そもそも山岳アジトで、過去の活動から生い立ちに至るまで自己批判と総括をやり続けた事件であり、彼らは逮捕拘留後も獄中や獄外でそれを延々と継続している。
逆に言えば、そういう総括ばっかりするような人々だったからこそ、この事件が起こったとも言える訳なのだから、80歳になり、やっと若者に語りかけることが出来たという人物像には、かなり違和感を感じる。
登場人物
様々な人物や霊魂、銃までが主人公の口を借りて語るという構成にも違和感がある。
連作小説という形をとって主人公を変えても良かったのじゃないか?
何故、一人にのみ語らせるのか?
それこそ主人公の経験だけを書くという方法もあるだろうに。 ベースにしている坂口弘「様山荘1972」では、見てきたようなフィクションは書かなくても、充分に事件の概要・個々の人物像を推測できる手がかりが多数有った。
上杉和枝(永田洋子)の語りの語尾が「〜だわ」「〜よね」となっており、読んでいてかなりイライラするが、これは、永田洋子の獄中からの手紙の文体を模したもの。
玉井潔(坂口弘)vs倉重鉄太郎(森恒夫)については、それなりに力が入っていて読ませるけれど…
黒木利一(向山茂徳)は小説家志望だったため、著者の思い入れがかなり入っているみたい。
彼らと関わった一般人の描写は少ない。
いわゆる当時の「労働者」は、パートのおばちゃんくらいしか出てこない。
シンパの恋人とか、狭い世界のみでの話だ。
担当刑事・公安とかの「権力側」は、型どおりの描写。
あとは目撃情報・被害報告が、調書からそのまま引用されるのみ。
結末で唖然 (ネタバレを含む)
小説後半に、少女は「天使」とまで書かれる。 語り手の玉井の臨終を予感させるラストで、彼は「光の雨」の中に吸い込まれていく。
つまりは少女に罪を告白し、癒され救われるという詰末。
「聖なる少女娼婦に告白し、救われる」というのは、手塚治虫版「罪と罰」みたいだ。
彼らは地獄に行くに決まっている、と思うのだがなぁ。 著者は悪人正機説なんだろうか?
結果的に「極左運動を潰した」ことが善行というのなら、それもまた一つの立場だろうけど。
かなり安易に救いを導入しているように見える。
現実の坂口弘の著作活動等を、私は評価しているけれど…、この本はそうゆう立場でもないようだ。
小説の主人公は当時を回想し「夢を見ていた」などとも語っているが、著者も今でも同じ夢を見続けているのではないか。
この事件は「悪霊」の再現だと言われていた。
日本版「悪霊」として構想するべきだったが、ファンタジー小説になってしまった。
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NHK ETV特集第150回『祖父の戦場を知る』(2006.9.2放送、NHK教育)
http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2006/0902.html
『 祖父が残した『自分は畳の上では死ねない』という言葉の意味を知りたくて祖父の戦場体験を調べ続けている者、戦時中の若者の心理を知ろうと祖父との対話から論文を書いた者……。』
というか、「小説」として完成度が高いモノは、まだ無いのかも。
今『イブニング』で連載中の「レッド」山本直樹の方に、ちょっと期待しています。
各方面にいろいろ配慮しながら、苦労して描いているみたいだけれど。
映画「光の雨」の失踪しちゃう監督というのが、立松への批評という感じじゃないかなぁ。