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ズレすぎてるし、アイロニカルにすぎる
「NHK問題」武田 徹 著
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063366/
本書の終わりの方で武田氏はこう書いている。
確かに、そういう印象の新書だった。
思い起こせば、文庫になった「偽満州国論」(中公文庫) を読んだときも似たような印象を持った。 「どこの星の満州国の話か」と。 ひょっこりひょうたん島と満州国を同列において考えるという視点は、それなりに面白かったが、ものすごく違和感を感じてた。
日本の公共放送のはじまりをラジオ体操という側面から探り、戦後すぐのGHQとの関係、「日曜娯楽版」の政治風刺の問題の流れは、たしかに興味深い。
しかし民放との関係は、ほとんどページが割かれていない。電波三法におけるアメリカ流とイギリス流がミックスされた経緯も、あまりにさらっと流されている。
個々のエピソードは興味深いけれど、具体的な考察からずれつつけている。
「我が軍」と呼ばずに「英国軍」にこだわったBBCを思うべきというが、BBCについての考察も実にあっさりしている
BBCは英国にとって「非国民」なメディアなのだろうか? などという素朴な疑問が出てくる。
この本は武田氏の日記によれば「準備をいれて3年ぐらい、実際に作業にかかりはじめて1年半ぐらいかかった」そうである。
執筆中はちょうど「NHK・ETV事件」の裁判中であり、受信料不払い運動の真っ最中だった。
事件には軽く触れる程度で、著者独特の「ずれた」視点からNHK問題を論じているのだが… それにしても「ずれ」すぎているのではないか。
第5章で『「王の声を」伝えるメディア』であったBBCが、フォークランド紛争で「我が軍」と呼ばずに「英国軍」と呼び続けたエピソードが論じられている。
ではNHKはどうなのか、たとえばイラクの時はとか、CNN・フランス・アルジャジーラの場合は…… と話が続くと思いきや「テレビ天皇制」というように、近代皇室の歴史や戦後日本論の方にずれていってしまう。
この件については前著「戦争報道」(ちくま新書)で論じているから、今回はスルーということなのかもしれないが、はぐらかされたという印象。
第6章にはGoogleについて触れた部分もある。 Googleの中立性や検索の限界を指摘し、自動ランキングシステムの外に出ることも必要ではないかと提言している。 将来Googleのランキング上位のみを注目して、調査や番組編成することへの危惧なのだろうが…
しかし、問題はそれ以前の部分ではないのか? 番組制作者がGoogle頼みになってしまうのではないか、という未来の危険性を論じる前に、もっと考える問題があるはず。
マスコミに対する不信は、ネットで各国の複数のメディアと並列して読まれ比較されるようになって、より大きくなってきた。 マスコミに無視される情報が多数有り、情報選択の偏向が明らかになったのも一因だ。 現状は、視聴者がネットを通じて見ている情報を、何故見えない振りをするのか(本当に見えていない可能性もあるが)が問われているのではないか?
ネット=Googleに頼る危険性を論じる前に、そもそもネットのメリットさえも活用せずにいる現状があるはず。 そこあたりを無視し、先走って危険性を論じているのではないか。 「どこの星のNHKの話か」と感じる部分だ。
そもそも第6章は、受信料を払うことで視聴者がNHKに対してモノをいう「権利」が発生するのではないか、という考察から始まっている。 ネットで異議申し立てができるという流れの中で、Googleなどの話が出てくる。
話のスジが違うのではないか? 受信料問題からGoogleの問題へと、奇妙にテーマがずれてしまっている。
個々のエピソードは面白いが、半分以上が「机上の空論」という読後感だった。
それに、すでに「非国民」「非市民」「非科学」「反ジャーナリズム」のメディアは日本国内に存在しているのではないのかなぁ。
「非常識」「下品」「暴力的」な低俗番組は国境を越えている。
「風雲たけし城」は世界各国で真似され、暴力的でロリなアニメは日本名物だ。 AV嬢の写真が中国公営事業のポスターに流用されいてもいるぞ。
「NHK問題」武田 徹 著
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063366/
本書の終わりの方で武田氏はこう書いている。
行き着いた論旨において世間一般のNHK論とはずいぶんとかけ離れたものになったと思う。「どこの星のNHKの話か」などと揶揄されそうである。
p243
確かに、そういう印象の新書だった。
思い起こせば、文庫になった「偽満州国論」(中公文庫) を読んだときも似たような印象を持った。 「どこの星の満州国の話か」と。 ひょっこりひょうたん島と満州国を同列において考えるという視点は、それなりに面白かったが、ものすごく違和感を感じてた。
日本の公共放送のはじまりをラジオ体操という側面から探り、戦後すぐのGHQとの関係、「日曜娯楽版」の政治風刺の問題の流れは、たしかに興味深い。
しかし民放との関係は、ほとんどページが割かれていない。電波三法におけるアメリカ流とイギリス流がミックスされた経緯も、あまりにさらっと流されている。
個々のエピソードは興味深いけれど、具体的な考察からずれつつけている。
「我が軍」と呼ばずに「英国軍」にこだわったBBCを思うべきというが、BBCについての考察も実にあっさりしている
あるいは市民運動が国家と敵対することを焦るあまりに自らの党派性、共同性に縛られて公共性を失うとしたら、公然と非市民を表明するメディアへ。さらにたとえば科学者たちが自らの利益を求めて独走するとしたら、あえて非科学を標榜するメディアへ。そして果てはジャーナリズムまでが自らの組織の倫理に拘泥し、報道の公共性を見失うようであれば、反ジャーナリズムを表明することすらいとはない組織へ……。
ここでは「非国民」「非市民」「非科学」「反ジャーナリズム」といった概念が、共同体の閉鎖的な思考を乗り越え、公共性の側に自らをひらいてゆくという意味での積極的な言葉として用いられている。
p236
BBCは英国にとって「非国民」なメディアなのだろうか? などという素朴な疑問が出てくる。
この本は武田氏の日記によれば「準備をいれて3年ぐらい、実際に作業にかかりはじめて1年半ぐらいかかった」そうである。
執筆中はちょうど「NHK・ETV事件」の裁判中であり、受信料不払い運動の真っ最中だった。
事件には軽く触れる程度で、著者独特の「ずれた」視点からNHK問題を論じているのだが… それにしても「ずれ」すぎているのではないか。
第5章で『「王の声を」伝えるメディア』であったBBCが、フォークランド紛争で「我が軍」と呼ばずに「英国軍」と呼び続けたエピソードが論じられている。
ではNHKはどうなのか、たとえばイラクの時はとか、CNN・フランス・アルジャジーラの場合は…… と話が続くと思いきや「テレビ天皇制」というように、近代皇室の歴史や戦後日本論の方にずれていってしまう。
この件については前著「戦争報道」(ちくま新書)で論じているから、今回はスルーということなのかもしれないが、はぐらかされたという印象。
第6章にはGoogleについて触れた部分もある。 Googleの中立性や検索の限界を指摘し、自動ランキングシステムの外に出ることも必要ではないかと提言している。 将来Googleのランキング上位のみを注目して、調査や番組編成することへの危惧なのだろうが…
しかし、問題はそれ以前の部分ではないのか? 番組制作者がGoogle頼みになってしまうのではないか、という未来の危険性を論じる前に、もっと考える問題があるはず。
マスコミに対する不信は、ネットで各国の複数のメディアと並列して読まれ比較されるようになって、より大きくなってきた。 マスコミに無視される情報が多数有り、情報選択の偏向が明らかになったのも一因だ。 現状は、視聴者がネットを通じて見ている情報を、何故見えない振りをするのか(本当に見えていない可能性もあるが)が問われているのではないか?
ネット=Googleに頼る危険性を論じる前に、そもそもネットのメリットさえも活用せずにいる現状があるはず。 そこあたりを無視し、先走って危険性を論じているのではないか。 「どこの星のNHKの話か」と感じる部分だ。
そもそも第6章は、受信料を払うことで視聴者がNHKに対してモノをいう「権利」が発生するのではないか、という考察から始まっている。 ネットで異議申し立てができるという流れの中で、Googleなどの話が出てくる。
話のスジが違うのではないか? 受信料問題からGoogleの問題へと、奇妙にテーマがずれてしまっている。
個々のエピソードは面白いが、半分以上が「机上の空論」という読後感だった。
それに、すでに「非国民」「非市民」「非科学」「反ジャーナリズム」のメディアは日本国内に存在しているのではないのかなぁ。
「非常識」「下品」「暴力的」な低俗番組は国境を越えている。
「風雲たけし城」は世界各国で真似され、暴力的でロリなアニメは日本名物だ。 AV嬢の写真が中国公営事業のポスターに流用されいてもいるぞ。
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