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一谷嫩軍記 組討の段
去る程に、御船を始めて、一門皆々船に浮かめば乗り後れじと、汀に打寄すれば、御座船も兵船も、遙かにのび給ふ。無官の太夫敦盛は道にて敵を見失ひ、御座船に馳着いて、父経盛に身の上を告げ知らすことありと、須磨の磯辺へ出でられしが、船一艘もあらざれば詮方波に駒を乗入れ沖の方へぞ打たせ給ふ。かゝりけるところに後より、熊谷次郎直実。「ヲヽイ/\」と声をかけ駒を早めて追っかけ来り、「ヤアそれへ打たせ給ふは平家の大将軍と見奉る。正なうも敵にうしろを見せ給ふか引返して勝負あれ。かく申す某は、武蔵ノ国の住人熊谷次郎直実見参せん返させ給ヘ」と、扇を上げて指招き、「暫し/\」と呼ばはったり。敵に声をかけられて何か猶予のあるべきぞ、敦盛駒を引返せば、熊谷も進み寄り、互ひに打物抜きかざし、朝日に輝く剣の稲妻かけ寄り、かけ寄せちゃう/\/\、てふの羽がへし諸鐙駒の足並かっしかっし。かしこは須磨の浦風に、鎧の袖はひら/\/\群れゐる千鳥村千鳥むら/\ぱっと、引汐に、寄せては返り、返りては又打ちかくる虚々実々。勝負も果てしあらざれば、「いそうれ組まん」と敦盛は打物からりと投げ給へば、「ムコハしをらし」と熊谷も太刀投げ捨てゝ駒を寄せ、馬上ながらむずと組む。「えい」「えい」「えい」の声の内、互ひに鐙を踏みはづし両馬が間にどうと落つ。すはやと見る間に熊谷は敦盛を取って押へ、「かく御運の極る上は、御名を名乗り直実が高名誉を顕はし給へ。又今生に何事にても思ひ残す御事あらば、必ず達し参らせん。仰せおかれ候へ」と懇ろに申すにぞ。敦盛御声爽かに、「ヲヽやさしき志。敵ながらあっぱれ勇士、かく情ある武士の手にかゝり死せんこと、生前(しようぜん)の面目。戦場に赴くより、家を忘れ身を忘れ、かねてなき身と知るゆゑに、思ひおくこと、更になし。さりながら忘れがたきは父母の御恩。我討たれしと聞き給はゞ、さぞ御歎き思ひやる。せめて心を慰むため、討たれし跡にて我が死骸、必ず父へ送り給はれかし、我こそ参議経盛の末子、無官の太夫敦盛」と、名乗り給ひしいたはしさ。木石ならぬ熊谷も見る目涙にくれけるが、何思ひけん引起し鎧の塵を打払ひ/\、「この君一人助けしとて勝軍に負けもせまじ、折節外に人もなし。一先づこゝを落ち給へ。早う/\」といひ捨てゝ立別れんとするところに、後の山より武者所数多の軍兵。「ヤア/\熊谷。平家方の大将を組敷きながら助くるは二心に紛れなし。きゃつめ共に遁すな」と声々に罵るにぞ、熊谷ははっとばかりいかゞはせんと黙然(もくねん)たり。敦盛卿しとやかに、「とても遁れぬ平家の運命。こゝを助かり行先にて下司下郎の手にかゝり、死恥を見せんより早く御身が手にかけて、人の疑ひはらされよ」と、西に向ひて手を合せ、御目を閉ぢて待ち給ヘばいたはしながら熊谷は御後に立廻り、弥陀の利剣と心に唱名、ふり上げは上げながら玉のやうなる御粧ひ。情なや無慚やと、胸も張裂く気後れに、太刀ふり上げし手も弱り、思ひにかきくれ討ちかねて歎きに時も移るにぞ、「アヽ後れしか熊谷。早々首を討たれよ」と捻向き給ふ御顔を、見るに目もくれ心さえ、「倅小次郎直家と申す者丁度君の年恰好。今朝(こんてう)軍の先駆けして薄手少々負うたるゆゑ、陣屋に残しをきたるさへ心にかゝるは親子の仲。それを思ヘば今こゝで討ち奉らば、さぞや御父経盛卿の、歎きを思ひ過されて」と、さしもに猛き武士も、そゞろ涙にくれゐたる。「アヽ愚かや直実、悪人の友を捨て、善人の敵を招けとはこの事。早首討ってなき跡の回向を頼むさもなくば、生害せん」とすゝめられ、「アヽ是非もなし」とつっ立上り「順縁逆縁倶に菩提、未来は必ず一蓮託生」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」首は前にぞ落ちにける、人の見る目も恥しと御首をかき抱き、くもりし声をはり上げて「平家の方に隠れなき、無官の太夫敦盛を熊谷次郎直実討取ったり」と呼ばはるにぞ。磯に臥したる玉織姫絶入りし気も一筋に、夫を慕ふ念力の耳に入りしかむっくと起き「ナウしばし待ってたべ。敦盛様を討ったとは、いかなる人かナウ恨めしや。せめて名残りに御顔を、一目見せて」といふ声も、深手に弱る息づかひ。見るより熊谷御首携へ歩み寄り、「敦盛を慕ひ給ふはいかなる人」と尋ぬれば、今はの苦しき声音にて、「我こそは敦盛の妻と定まる玉織姫。お首はどこに。エヽもう目が見えぬ」と撫廻せば、「ムヽなにお目が見えぬとや。ヲヽいとしや/\御首はコレコレこゝに」と手に渡せば、「わっ」と泣く/\しがみ付き、膝にのせ抱きしめて消入り絶入り歎きしが、「ナウコレ敦盛様。アヽはかない姿になり給ふなう。陣屋を出でさせ給ひしより御跡したひ方々と尋ぬる中に源氏の武士、平山武者所。我を見付けて無体の恋慕、だまし討たんも女業。この如く手にかゝり、二人が二人で悲しい最期。せめて別れた御顔が、見て死にたいと思へども、深手に心が引入って、目さへ見えぬか悲しや」と又御首を撫でさすり、「宵の管絃の笛の時、後(のち)にとありしお詞が、今生後生の形見かや。この世の縁こそ薄くとも来世では末ながう、添ひとげてたべわが夫」と、顔に当て身に添へて、思ひの限り声限り、泣く音は須磨の浦千鳥涙にひたす袖の海、引く汐時と引く息の、知死期と見えて絶果てたり。熊谷は茫然と、「エどちらを見てもつぼみの花。都の春より知らぬ身の今魂はあまざかる、鄙に下りてなき跡をとふ人もなき須磨の浦、なみ/\ならぬ人々の成り果つる身の痛はしや」と悲歎の涙にくれけるが、是非もなく/\玉織の亡骸を取りをさめ、母衣をほどいて敦盛の、御死骸をあけまき押包み、総角取って引結び、手綱をたぐり結付ける鞍のしほでやしを/\と、弓手は御首、携へて、右に轡の哀れげに、檀特山(だんとくせん)の、うき別れ悉陀太子を送りたる、車慝(しやのく)童子が悲しみも、同じ思ひの片手綱、涙ながらに
一谷嫩軍記
http://homepage2.nifty.com/hachisuke/yukahon/ichinotani.html#name5
侍大将が「我こそは…」と名乗りを上げてから合戦してたのは、源平合戦くらいまでじゃなかったかなぁ。
せいぜい太平記のころまでの「作法」のはず。
すでに平安時代末の義経は、奇襲戦法などでこの作法を無視し始めている。
元寇の時、義経の流れを汲む元軍は、日本の侍が名乗りを上げる「作法」を理解できなかった。*
戦国時代の武将は、あんまり合戦で名乗りをあげて戦ったりしなかったはずだよなぁ…
*(義経の流れ…は嘘ですw 念のため)
『保元物語』 官軍方々手分けの事
内裏にも此よし聞えければ、同五日、めされて参る武士は誰々ぞ。まづ下野守義朝・陸奥新判官義康・安芸判官基盛・周防判官季実・隠岐判官惟重・平判官実俊・新藤判官助経、軍兵雲霞のごとく召具して、高松殿に参じけり。彼等を南庭にめされて、少納言入道をも(っ)て、去二日、一院崩御の後、武士ども兵具を調て、東西より都へ入集る事、道も去あへず、以外の狼籍也。弓箭を帯せん輩をば、一々に召取(っ)て参上すべき由仰下さる。各庭上に■て是を承る。「義朝・義康は、内裏に侯て、君を守護し奉れ。其外の検非違使は、皆関々へ向ふべし。」とて、宇治路へは安芸判官基盛、淀路へは周防判官季実、粟田口へは隠岐判官惟重、久々目路へは平判官実俊、大江山へは新藤判官助経承(っ)て向ひけり。今夜関白殿、并に大宮大納言伊通卿已下、公卿参じて、議定有て、謀叛の輩皆めしとつて、流罪すべきよし宣下せらる。春宮大夫宗能卿は、鳥羽殿に候はれけるをめされければ、風気とて参内せられず。
明れば六日、検非違使ども、関々へ越けるに、基盛宇治路へ向ふに、白襖の狩衣に、浅黄糸の鎧に、うはおりしたる烏帽子の上に、白星の冑をき、切符の矢に、二所藤の弓もち、黒馬に黒鞍をきてぞ乗(っ)たりける。其勢百騎計にて、基盛、大和路を南へ発向するに、法性寺の一の橋の辺にて、馬上十騎ばかり、ひたかぶとにて、物の具したる兵廿余人、上下卅余人、都へ打(っ)てぞ上りける。基盛、「是は何の国よりどなたへ参ずる人ぞ。」と問せければ、「此程京中物忽のよしうけたまはる間、その子細を承らむとて、近国に候者の上洛仕にて候。」と答。基盛打むかひて申けるは、「一院崩御の後、武士ども上洛の由叡聞に及間、関々をかために罷むかふ也。内裏へ参る人ならば、宣旨の御使にうち列て参じ給へ。然らずはえこそ通し申まじけれ。かう申は、桓武天皇十代の御末、刑部卿忠盛が孫、安芸守清盛が次男、安芸判官基盛、生年十七歳。」とぞ名乗(っ)たる。大将とおぼしき者、かちん(の)直垂に藍白地を黄に返したる鎧きて、黒羽の矢負、塗籠藤の弓を持、黄川原毛なる馬に、貝鞍をいて乗(っ)たりけるが、すゝみ出て、「身不肖に候へども、形のごとく系図なきにしも候はず。清和天皇九代の御末、六孫王七代の末孫、摂津守頼光が舎弟、大和守頼信が四代の後胤、中務丞頼治が孫、下野権守親弘が子に、宇野七郎源の親治とて、大和国奥郡に久住して、未武勇の名をおとさず。左大臣殿の召によ(っ)て、新院の御方に参るなり。源氏は二人の主取事なければ、宣旨なりともえこそ内裏へは参まじけれ。」とて打過ければ、基盛百余騎の中にとりこめてうたんとしけるを、親治ち(っ)ともさはがす、弓とりなをして、散々に射るに、平氏の郎等矢庭に二人射落されて、ひるむところを、えたりやおうとて、十騎の兵轡をならべて懸たりければ、平家の兵叶はじとや思けん、法性寺の北のはづれまでぞひきたりける。
保元物語 「校註 日本文学大系」本
http://www.j-texts.com/chusei/gun/hogenall.html
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