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ツッコミどころが多いなぁ。 ネットの評判は追いかけていないけれど、おそらくぼろくそだろう。
反論としては弱いし、現代日本論としてもいまいち。
あえて寄稿する意味がなかったように思う。 反論しないで、小説を書いて答えとする方が良かったろうになぁ。
作家個人としての社会に対する怒りや、孤独というのは何となく理解できるけれど、ロジカルに自分の行動を説明しようとするのは下手だと思う。
自身については「ビューキ」と書いてるけれど、その説明もかなり個人的なもので、説得力が有るとは思えない。
ウーマンリブと言われていた頃の論じ方や、マルクス主義と接近したフェミニズム論議をそのまま引き継いで論じているような印象も。 マルクス主義じゃなくてエンゲルスじゃないか、とも思う。
それに朝日新聞社説メソッド「ちょっと待ってほしい」まで駆使しているから…
「殺意」という言葉使いも、ちょっとどうかと思うなぁ。 そもそもは「間引き」を「子猫殺し」と書いたことから始まった騒動だ。
一連の騒動の中で「殺」を多用していることが、問題を混乱させているようにも思う…というか喧嘩売ってるのだろうな。
と有るけれど、板東氏はこれ以上話し合う気は無いと思うし、たとえ話し合っても噛みあわない不毛な議論になりそうだ。
いちおう弁護派
【若干のメモ】 無駄に長い
反論としては弱いし、現代日本論としてもいまいち。
あえて寄稿する意味がなかったように思う。 反論しないで、小説を書いて答えとする方が良かったろうになぁ。
作家個人としての社会に対する怒りや、孤独というのは何となく理解できるけれど、ロジカルに自分の行動を説明しようとするのは下手だと思う。
自身については「ビューキ」と書いてるけれど、その説明もかなり個人的なもので、説得力が有るとは思えない。
ウーマンリブと言われていた頃の論じ方や、マルクス主義と接近したフェミニズム論議をそのまま引き継いで論じているような印象も。 マルクス主義じゃなくてエンゲルスじゃないか、とも思う。
それに朝日新聞社説メソッド「ちょっと待ってほしい」まで駆使しているから…
今回の騒動は、「(人の代理として)動物を愛する心やさしい人たち」の中に潜む殺意の大きさを露呈させた。
「殺意」という言葉使いも、ちょっとどうかと思うなぁ。 そもそもは「間引き」を「子猫殺し」と書いたことから始まった騒動だ。
一連の騒動の中で「殺」を多用していることが、問題を混乱させているようにも思う…というか喧嘩売ってるのだろうな。
子猫殺しに対する病的な攻撃はやめて、そろそろこんな現象の起きた日本社会の深淵を覗きこみ、話し合う時ではないだろうか。
と有るけれど、板東氏はこれ以上話し合う気は無いと思うし、たとえ話し合っても噛みあわない不毛な議論になりそうだ。
いちおう弁護派
【若干のメモ】 無駄に長い
■「愛を笑い飛ばす女たち」 ISBN4-10-414702-8 C0095
小説新潮平成10年8月〜12年3月まで連載していた「海の彼方から 楽園(タヒチ)日記をまとめたもの。
最初にバージニア・ウルフ「私だけの部屋」、メイ・サートン「独り居の日記」への言及がある。
板東氏がタヒチに建てた自宅を、先人の女性作家にとっての私的空間についての想いの延長線上に捉えているようだ。
先人たちの怒り、孤独に感ずるものが多いらしい。
そういえば大学は住居学科、イタリアのミラノ工科大学、プレラ美術学院に2年留学も、
いちおう建築・デザインの勉強のためと言うことになっている。
◇イタリア時代のこと
◇社会分析的な部分については、ちょっと首をかしげる部分が多いかな。
どこか教条的な感じがする。
坂東眞砂子さんは「いごっそう」 http://belena.blog70.fc2.com/blog-entry-157.html
で「功名が辻論争」を紹介したが、その中で『「あまりの独善と狭窄(きょうさく)な」“文化マルキスト的”視点』という批判を紹介したけれど、なるほど、そういわれる部分はあるなと納得する。
でも「文化マルキスト的」というのとは、ちょっと違う。 ウーマンリブと言われていた頃の論じ方や、マルクス主義と接近したフェミニズム論議をそのまま引き継いで論じているような印象。 マルクス主義じゃなくてエンゲルスじゃないか、とも思う。
つまり、ちょっと古いというか、教条的というか、最近の社会学関係の本は読んでいないだろうなと思える。
評論家じゃなくて小説家だから、まぁ許されているという感じ。
■「わたし」 ISBN4-040873353-2 C0093
平成14年に発表した自伝的小説
タヒチでの生活の描写のなかに、主に幼い頃からの高校の頃までの思い出や、家族(祖母/祖父・曾祖母/曾祖父のことなども)のことを綴っている。ライター時代の思い出も少しだけ有るけれど。
週刊現代への寄稿の中に「実の母親ではなく、飼い猫こそ自分の母親だと心の中で呟きつつ、寝床に猫を連れ込んで、腹の匂いを嗅いだり、撫でたりしながら眠りに就いた。」とあるが、その描写はこの小説中にある。
本当の誕生日は4月始めだったが、両輪の配慮(?)で3月生まれとして出生届される。そのため小学校時代(それ以降も?)は、ほぼ1歳年上の「同級生」の中で苦労したらしい。
小二の頃、掃除をさぼる男の子に突っかかり体力で負けたのに発憤して、給食を頑張って食べて肉を付ける努力を始める。
小学校時代、木に「妖精の女王」と名付ける……赤毛のアンだな
一七歳で大学受験で宇高連絡船に乗ったときにナンパされ、断った話。
不感症という自覚をする話。
肉体だけではなく、人生すべてに対してそうであることに自己嫌悪を憶えることについて、いろいろ書いている。
しかし別の章で、人から見れば他愛のないことで泣いたこと、笑ったことの思い出を書いてもいる。
ここあたりのズレが、まぁ「文学」なんだろう。
両親のことをすっ飛ばして、祖母やその上の世代のことばかり書くところが、なんというか、いかにも業が深そうである。
■「はじまりの卵の物語」 ISBN4-652-01628-X C8393
小六の女の子結花がパラレルワールドに迷い込む冒険譚。 1989年発表
「世界」が生まれ変わることについての話。
■■
いろいろ思うところはあるけれど、同世代人だとは思う。
学年は1年上だけれど
小説新潮平成10年8月〜12年3月まで連載していた「海の彼方から 楽園(タヒチ)日記をまとめたもの。
最初にバージニア・ウルフ「私だけの部屋」、メイ・サートン「独り居の日記」への言及がある。
板東氏がタヒチに建てた自宅を、先人の女性作家にとっての私的空間についての想いの延長線上に捉えているようだ。
先人たちの怒り、孤独に感ずるものが多いらしい。
そういえば大学は住居学科、イタリアのミラノ工科大学、プレラ美術学院に2年留学も、
いちおう建築・デザインの勉強のためと言うことになっている。
◇イタリア時代のこと
中学、高校、大学時代、私は太っていることを気にしていた。肥満体ほどでもなかったが、日本の基準からすると、小太りの部類に入っていた。
(略)
「丸い」は「太い」、「太い」は「醜い」という呪文から赤い方されたのは、大学卒後、イタリアで暮らし始めてからだった。イタリア人の基準から言えば、私の肉付き具合は普通である。背丈はさほど高くないので、小太りというより小柄な部類に入れられた。
私は思春期以来、始めて「普通の体型」となったことに大喜びした。
p123
私が22歳でイタリアに行ったとき、なんといっても楽しかったのは、町で男によく声をかけられたことだった。道を歩いていると、通りすがりに、「チャオ、ベッラ(別嬪さん)」と声をかけてくる。バールに座っていると、隣のテーブルやカウンターの男たちがウインクしてくる。それは自分が女であり、男を引きつける力があることを認識させてくれる、興奮する体験だった。
p72
◇社会分析的な部分については、ちょっと首をかしげる部分が多いかな。
どこか教条的な感じがする。
坂東眞砂子さんは「いごっそう」 http://belena.blog70.fc2.com/blog-entry-157.html
で「功名が辻論争」を紹介したが、その中で『「あまりの独善と狭窄(きょうさく)な」“文化マルキスト的”視点』という批判を紹介したけれど、なるほど、そういわれる部分はあるなと納得する。
でも「文化マルキスト的」というのとは、ちょっと違う。 ウーマンリブと言われていた頃の論じ方や、マルクス主義と接近したフェミニズム論議をそのまま引き継いで論じているような印象。 マルクス主義じゃなくてエンゲルスじゃないか、とも思う。
つまり、ちょっと古いというか、教条的というか、最近の社会学関係の本は読んでいないだろうなと思える。
評論家じゃなくて小説家だから、まぁ許されているという感じ。
■「わたし」 ISBN4-040873353-2 C0093
平成14年に発表した自伝的小説
タヒチでの生活の描写のなかに、主に幼い頃からの高校の頃までの思い出や、家族(祖母/祖父・曾祖母/曾祖父のことなども)のことを綴っている。ライター時代の思い出も少しだけ有るけれど。
週刊現代への寄稿の中に「実の母親ではなく、飼い猫こそ自分の母親だと心の中で呟きつつ、寝床に猫を連れ込んで、腹の匂いを嗅いだり、撫でたりしながら眠りに就いた。」とあるが、その描写はこの小説中にある。
本当の誕生日は4月始めだったが、両輪の配慮(?)で3月生まれとして出生届される。そのため小学校時代(それ以降も?)は、ほぼ1歳年上の「同級生」の中で苦労したらしい。
小二の頃、掃除をさぼる男の子に突っかかり体力で負けたのに発憤して、給食を頑張って食べて肉を付ける努力を始める。
小学校時代、木に「妖精の女王」と名付ける……赤毛のアンだな
一七歳で大学受験で宇高連絡船に乗ったときにナンパされ、断った話。
小便たれ、尻の青い小娘。私の頭に中に、その罵り声が響きわたった。それは、おまえは女ではないと言うことだ。
ボーイフレンドを作る夢、セックスする夢、新たな人生が開ける夢。私の心のどこかで、そんな夢が土台から揺すぶられ、ぽろぽろと欠けていった。
不感症という自覚をする話。
肉体だけではなく、人生すべてに対してそうであることに自己嫌悪を憶えることについて、いろいろ書いている。
しかし別の章で、人から見れば他愛のないことで泣いたこと、笑ったことの思い出を書いてもいる。
ここあたりのズレが、まぁ「文学」なんだろう。
両親のことをすっ飛ばして、祖母やその上の世代のことばかり書くところが、なんというか、いかにも業が深そうである。
■「はじまりの卵の物語」 ISBN4-652-01628-X C8393
小六の女の子結花がパラレルワールドに迷い込む冒険譚。 1989年発表
「世界」が生まれ変わることについての話。
■■
いろいろ思うところはあるけれど、同世代人だとは思う。
学年は1年上だけれど
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>ツッコミどころが多いなぁ
倫敦橋さんなら、きちんと理解して頂けると思っていました。
もっとも、週刊現代での反論は、今まで出ていた坂東氏の反論と、かなり重複しているのですけど。
>自身については「ビューキ」と書いてるけれど、その説明もかなり個人的なもので、説得力が有るとは思えない。
「ビョーキ」の記述のあたりが、子猫殺しの直接の理由ですね。やっと子猫殺しの直接の理由が分かりました。もちろん、仰るとおり、「説得力が有るとは思えない」です。
「あまりの独善と狭窄」。これは子猫殺し批判への反論でも、当てはまるのではないかと思います。「独善と狭窄」は思想として思っているだけならいいのですが、その思想を実行(=子猫殺し)してはいけなかったのです。