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連合赤軍事件の一審判決は1982年。
既に事件から10年経っていて、学生運動・新左翼は影をひそめてはいたが、それでも重大事件の判決ということで再び注目されていた。
厳しい判決が予想されていたため、永田洋子の「十六の墓標」の出版は「不当判決への抗議」というものになるのかと思われていた。

そもそも永田が革命左派のトップになったのは、機関紙の記事を書いていたからだった。
幹部が次々と逮捕されるなかで、機関紙の主筆というような立場になっていった。

裁判中も出廷拒否で暴れたというか、抵抗したという「革命戦士」っぽい行動が報じられていたので、さぞかし「革命的」な内容になるのじゃないかという観測もあったようだ。
当時はまだ重信房子が「アイドル」視されている空気も残っていたから、永田も同じ路線で獄中で戦い、突っ張り続けるのだろう、とか。

一審判決から抜粋

「(事件が)組織防衛とか路線の誤りなど革命運動自体に由来するごとく考えるのは、事柄の本質を見誤ったというしかない」

「あくまで被告人永田の個人的資質の欠陥と森の器量不足に大きく帰因」

「自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵していた」


そのほか、森の自殺を肯定的に評価していたりもする。
「女性特有」という部分が差別的だとか、あまりに時代錯誤だとが、あれこれ非サヨクからも批判される判決でした。

永田の本は、この一審判決に対して「革命的」に抗議するものかと思いきや……全く違うものだった。
左翼用語をなるべく排して、自身の半生を訥々と、事件を淡々と記述している。

この本だけを読むと、川島豪・森恒夫・坂口弘が身勝手で無謀な奴で、彼女がそれに引きずられていってしまったようにも感じられる。

坂東国男は「永田洋子さんへの手紙」の中で、次のように書かずにはいられない。

永田同志の「十六の墓標」の中でも、比較的永田同志の本音の感情が書かれておりいろいろ動揺したことが書かれています。しかし、私や同志達に映っていた永田同志は、そんな人間的感情のひとかけらもない「鬼ババア」でしかありませんでした。私も当時は、恐ろしい人、動揺しない人と考えていたのですから、下部の人が、私たち指導部を「お上=神」と恐れたのも無理はありません。





「愛と命の淵に」「私生きています」「獄中からの手紙」は、支援者への手紙をまとめたものです。 (「愛と命の淵に」は瀬戸内寂聴との往復書簡)

全部は読んでいないのだけれど、「思いこんだら一途」という人だなぁと思った。
80年代は瀬戸内寂聴にはまり、90年代は高橋和巳に心酔していたみたいだ。

獄中サバイバル術・闘病記という感じの記述も多い。 病気治療や薬などは、最低限の処方しかされないので、飲尿療法を実践中。 最初は、なかなかきついらしい。

あと、目次と内容の整合性がいまいちとれていない感じ。 あんまり読む必要がないかなと思っていた手紙の中に、事件への思いなどが書かれていたりする。 斜め読みしてたら、うっかり読み落としそうになった。

「獄中からの手紙」には彼女のスケッチが載っています。
花は写実的に描いている。 それに対して人物が入っている絵(看守と廊下を歩いたり、体操したり)は、どこかマンガ的。
そこに「乙女ちっく」を見出したのが大塚英志 。
彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義
出版社/著者からの内容紹介
永田洋子はなぜ「乙女ちっく」な夢を見たのか?

獄中で乙女ちっくな絵を描いた永田洋子、森恒夫の顔を「かわいい」と言ったため殺された女性兵士。連合赤軍の悲劇をサブカルチャー論の第一人者が大胆に論じた画期的な評論集がついに文庫化!新たに重信房子論も掲載


しかし、改めて彼女の絵を見たけど、彼女が昔読んでいたマンガの文法が自然に出ただけのように感じた。 彼女の絵そのものは、それほど「乙女ちっく」とは思えないがなぁ…

1949年生まれでリボンにも描いていた樹村 みのりは、大塚の視野に入っていたかなぁ? 

ちなみに、重信房子の著書の題名は、どこか俵万知に通じてると思う。
「大地に耳をつければ日本の音がする」「りんごの木の下であなたを産もうと決めた」



瀬戸内寂聴の言葉

なぜ永田洋子さんとつきあうのか、連赤問題の裁判に関わるのかとよく聞かれる。ある人が「あんなやつはきちがいですよ。きちがいでなければ、あんなことは出来ない。あんなやつはさっさと殺してしまえばいいんだ」と言った。
同じ頃私の小学校の同窓会があって「どうしてあなたはあんな怖ろしい人のことをかばうの、どうしてもわからんけん、教えて」と言った。前者に怒りを覚え、後者に悲しくなった。前者の思い上がった意見と、後者の素朴な感慨が、今永田洋子に対して抱く、世間の感情のほとんどを代表するものだと思う。

わたしもかつては、この二つの意見に似たような気持ちを抱いていた。それがなぜ、今のような彼女と関わってしまったのか、やはり、自分が出家していたからだとしか思えない。
正直いって、けっして好きにはなれなかった永田洋子さんから、手紙が来るようになり、その手紙によって、わたしは自分が抱いていた永田洋子のイメージと全く違う人物と個性をそこに発見したのである。

大量の同志殺害をした狂気の殺人鬼というイメージは彼女の手紙のどこにもなかった。
ごく普通の女性がそこにいた。世間知らずの、一本気の、単純な正義感に支えられて、ひたすら、世直しを夢見ていた少女が、そのまま年をとらずに獄中で凍結されたままいるような気がした。(中略)

今では彼女の手紙は私の手元に300通を超えている。そのどれもが、素直で赤裸々ないい手紙だとわたしは思う。
よくもあれだけ殺して平気で生きられるという声も、わたしはよく聞く。そんなときわたしは「汝の罪なき者石をもて彼女を撃て」と言ったキリストの言葉を思い出さずにはいられない。
獄中の彼女は、私と何年つきあったところで宗教を持つわけでなく、あの世を信じているわけでもないようだ。
それでも、殺した人々の冥福を私に祈ってほしいとは度々もらしている。

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