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一昨日の続き


メモリが512MしかなくてもUbuntuがそこそこ動いているので、増設は今回はスルー。
光学ドライブは500円で売ってたDVD-ROM。 このPCでDVDを焼くことは滅多にないだろうということで。
光学マウスとスピーカーは、結局990円のキーボード・マウス・スピーカーのセット特売品にした。

読めればいい、聞こえればいい、ボールマウスよりマシということで、思いっきり安物でそろえてしまった。

SATAケーブルを500円で買ってしまったが、実は家に1本余っていた。 ちょっと無駄な買い物だった。
その代わり、ネジが足りなかった。 まったく…ドジ


ローエンドPCでは有るけれど、ショップであれこれ物色してみると、まだまだ現役のPCだな。


AGPのビデオカードとDDR(1)のメモリのPCがサブとして動いているけれど、それに比べたらPCI ExpressとDDR2は十分に現役だ。
ちょっと前から「メモリが暴落した」なんて言われていたが、暴落したのはDDR2でDDRはたいして値段は下がらなかったからなぁ。
LGA775だから、Core2 Quadという夢を見れるしw



現状はサードPCという位置づけ。
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何故かスリム型PCを入手。
ちょっと前のショップブランドのローエンドPC。
Celeron 420 メモリが512、光学ドライブ無し、HDD無し、OS無し。
ビデオはオンボード。 

とりあえず光学ドライブを他のPCから仮付けし、使わなくなった15インチCRT、HDDは60G、古いボールマウス、キーボード(当然PS2)、おまけのスピーカーを付けてみる。

何となくUbuntuを入れてみた。


オンボードのビデオだと解像度は 1152*864 までだったが、15インチCRTだと何とか間に合う。
youtubeの動きの激しいHD動画では、ちょっと厳しいかもしれない。 所々ピンク色になる。

メモリが足りないかなぁ、とも思うが、ネットを見たりとか、簡単な作業くらいはこなせるレベルかな。


これをどうしようかなぁ?

一応PCI Express x1 ではある。 PCI x2 、メモリスロットは二つなので最大4G。
拡張性は高くないマザーボードだし、スリムケースなので電源が300w。 

あんまり消費電力が高いCPUやビデオカードを入れてても厳しい気がする…
そもそもパワーアップしても、使い道がイマイチ無い。
でかいHDDを繋いでファイルサーバーにするとか、だろか?


現在使っているメインPCのお下がりパーツを流用するようにしちゃおうかなぁ?
いまだにメインは19インチCRTだったりするし、ブルーレイじゃないし


とりあえず、光学マウスとスピーカーを調達しよう。
さすがにボールマウスはつらいw。  PCおまけのスピーカーだと音量が足りない。
 芸術によつて「名」のみを得たものが一番多い。
「恋」を得たものも少くない。
「富」を得たものは、数へるほどしかない。

 自分の作品を「金」に代へることは、一つの方便である。芸術的制作品が、他の商品の如く、需要供給の法則に従つて、それ自身一つの価格を生じるといふのは社会的錯覚である。故に、機会さへあれば、芸術家は、その労力の報酬としてゞなく、単に、作品の唯一無二なる特性によつて、その作品を「利用」するものに対し、如何に多額の謝礼を要求しても差支へない。――とまあ、これが原則だと思つてゐればいゝ。

 実際問題として、芸術家は、その所謂「脱俗振り」によつて自ら高しとすることは勝手であるが、さういふ風潮を招くやうな対他的手段を廻らす必要はない。「金銭のことを口にしない」ことは、「金銭のことを問題にしない」ことにならないのみならず、却つて問題にし過ぎてゐるのかもわからない。

 ロダンは、自分の作品を一銭でも高く売ることにあらゆる根気と算段とを惜まなかつたと伝へられるが、これを以て芸術家としてのロダンを侮蔑する一部の人々に私は与することはできない。

 現代に於て、「清貧」といふ言葉は通用しないやうである。「清富」といふ言葉が永久に意味をなさないやうに。

 軍隊の本に「将校は社会の上流に位し」とか、「国民の模範となり」とかいふ文句があつたと記憶するが、文壇の本にも「文学者は時代の先駆にして」とか、「人類の生活を指導し」とかいふ文句があるらしい。
 その点、剣と筆とは共に誇大妄想狂を作ると見える。そして、その誇大妄想狂は、共に蓄財を卑め、借金を恥としない。
 剣を捨て、筆を取り、蓄財を心掛けて、借金に苦められるのも亦故なりと云ふべしである。呵々。



岸田國士が1926(大正15)年に書いた文章。
一握りのスター以外は、誰も儲かっていないような気がする今日この頃。

アレキサンダー大王の統治時代だが、
ディオメデスという男が、
盗賊として、指をくくられて、
大王の前に連れてこられた。
その男、掠奪を繰り返す
ありふれた海賊であった。
死罪を給るために、
この大王の前に引き出されのだ。



皇帝は次のように尋ねた、
「お前は、なぜ海で盗みを働くのだ?」
相手は答える、
「なぜ盗人呼ばわりされるのですか?
小さな舟で海を
荒し回るからですか?
あんたのようにおれも大船団で武装できていたら、
おれもあんたのように皇帝ってことですかね」



「どうしろというんです? しょせん運命のせいですよ、
運命に対しては、本当にどうしようもありません、
運命が、不当な境遇をおれに授けてくれたってわけですよ、
そのせいで、こんな振る舞いをすることになったのです、
とにかくお許しください、
わかってください、よく言われているように、
貧しさの中には誠実は
宿らないと言うことを」



皇帝はディオメデスの言うことを
注意深く聞き、
「お前の運命を不運から幸運へと
変えてやろう」と言った。
実際そのようにとりはからった。その後、ディオメデスは誰にも
くってかかったりすることはなく、誠実で立派な人になった、
これは、ローマの大学者と言われたヴァレリウスが、
真実のこととして伝えている。



もし神が、もう一人の情深い
アレキサンダー大王に、おれを合わせて、
その人が、おれを幸運へと導いてくれ、
それなのに、悪事を続けるようなことがあれば、
おれは、火刑になり、灰になるよう自らを
裁いてみせよう。
人は必要にかられて、道を誤り、
飢えれば狼も森からでてくる。




フランソワ・ヴイヨン『遺言』 十七節から二一節 
佐々木敏光 訳


最近「海賊」という言葉を目にする機会が増えたので、なんとなく掲載してみる。


 
ここから わたしが立ち去る時
わたしの別れの言葉に こう言わせて下さい。
わたしが 見てきたものは
たぐいなく素晴らしいものでした。
わたしは 光の海に 拡がる蓮の花の
秘められた蜜の 甘さを味わい
わたしは こんなに祝福されました――と
これを わたしの別れの言葉に させてください。
数限りない形を そなえた この劇場で
私は 劇を演じてきました。
そしてここに形のないものの
姿を見ることが出来ました。
触れることの出来ないものの手に 触れられて
わたしの体も手足も喜び踊りました。そして
ここに終りがくるものなら 終りとなるがよい
これを わたしの別れの言葉に させて下さい。





訳:高良とみ
http://linden.main.jp/tagore/gitanjali.html




映画「おくりびと」を見た記念にうp




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