×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
へんな心
株がさがる 株がさがる
小気味よくも 株がさがる
成金どもが 泣いて狂ひ
首くくるも 因果応報
株がさがる 株がさがる
小気味よくも さがるよ あーーーあ
さがるよ
命がけで 乗ろとしても
乗れぬ電車 いやな電車
故障電車 停電電車
サボリ電車 改良するは
いつのことか 改良もせずに
値上げばかり 困るよ あーーーあ
困るよ
田尻さんや 田尻さんや
東京市内 到るところ
塵芥(ごみ)の山だ ゴミの山だ
どうかせぬか 田尻さんや
コレラコレラ 怖くないか
おいら怖い 怖いよ あーーーあ
怖いよ
わからない節
ああわからない わからない 今の浮世は わからない
文明開化と いうけれど 表面ばかりじゃ わからない
瓦斯や電気は 立派でも 蒸汽の力は 便利でも
メッキ細工か 天ぷらか 見かけ倒しの 夏玉子
人は不景気 不景気と 泣き言ばかり 繰り返し
年が年中 火の車 廻しているのが わからない
ああわからない わからない 義理も人情も わからない
私欲に眼が くらんだか どいつもこいつも わからない
なんぼお金の 世じゃとても 赤の他人は いうもさら
親類縁者の 間でも 金と一と言 聞く時は
忽ちエビスも 鬼となり くまたか眼を むき出して
喧嘩口論 訴訟沙汰 これが開化か 文明か
ああわからない わからない 乞食に捨児に 発狂者
スリにマンビキ カッパライ 強盗窃盗 詐欺取財
私通姦通 無理情死 同盟罷工や 失業者
自殺や餓死 凍え死に 女房殺しや 親殺し
夫殺しや主殺し 目も当てられぬ 事故(こと)ばかり
無闇矢鱈に 出来るのが なぜに開化か 文明か
ああわからない わからない 賢い人が なんぼでも
ある世の中に 馬鹿者が 議員になるのが わからない
議員というのは 名ばかりで 間抜けでふぬけで 腰抜けで
いつもぼんやり 椅子の番 唖かつんぼか わからない
株がさがる 株がさがる
小気味よくも 株がさがる
成金どもが 泣いて狂ひ
首くくるも 因果応報
株がさがる 株がさがる
小気味よくも さがるよ あーーーあ
さがるよ
命がけで 乗ろとしても
乗れぬ電車 いやな電車
故障電車 停電電車
サボリ電車 改良するは
いつのことか 改良もせずに
値上げばかり 困るよ あーーーあ
困るよ
田尻さんや 田尻さんや
東京市内 到るところ
塵芥(ごみ)の山だ ゴミの山だ
どうかせぬか 田尻さんや
コレラコレラ 怖くないか
おいら怖い 怖いよ あーーーあ
怖いよ
メロディを聴けば、おそらくみんな知っているヴェルディのリゴレットよりマントヴァ公のアリア「女心の歌」の替え歌です。
最近は携帯の着メロにも有るみたい。
メロディは、ここあたりで聞けます。(ページを開くと演奏されるので注意)
ヴァーチャルうたごえ喫茶「のび」
http://utagoekissa.music.coocan.jp/utagoe.php?title=onnagokoronouta&type=midi
日本初演は1916年,東京浅草の駒形劇場で清水金太郎,田谷力三,原信子主演で行われたそうで、それを添田唖蝉坊が替え歌にして歌ったものらしい。
「田尻さん」というのは当時の東京市長田尻稲次郎。1918年4月5日 - 1920年11月27日まで在職。専修大学創立者の一人で、「積読」という言葉の言い出しっぺ。
<参考>
梅丘歌曲会館「詩と音楽」
http://homepage2.nifty.com/182494/LiederhausUmegaoka/songs.htm
http://homepage2.nifty.com/182494/LiederhausUmegaoka/songs/V/Verdi/S882.htm
あんまり正月らしくもない気がするが、もうひとつ紹介
わからない節
ああわからない わからない 今の浮世は わからない
文明開化と いうけれど 表面ばかりじゃ わからない
瓦斯や電気は 立派でも 蒸汽の力は 便利でも
メッキ細工か 天ぷらか 見かけ倒しの 夏玉子
人は不景気 不景気と 泣き言ばかり 繰り返し
年が年中 火の車 廻しているのが わからない
ああわからない わからない 義理も人情も わからない
私欲に眼が くらんだか どいつもこいつも わからない
なんぼお金の 世じゃとても 赤の他人は いうもさら
親類縁者の 間でも 金と一と言 聞く時は
忽ちエビスも 鬼となり くまたか眼を むき出して
喧嘩口論 訴訟沙汰 これが開化か 文明か
ああわからない わからない 乞食に捨児に 発狂者
スリにマンビキ カッパライ 強盗窃盗 詐欺取財
私通姦通 無理情死 同盟罷工や 失業者
自殺や餓死 凍え死に 女房殺しや 親殺し
夫殺しや主殺し 目も当てられぬ 事故(こと)ばかり
無闇矢鱈に 出来るのが なぜに開化か 文明か
ああわからない わからない 賢い人が なんぼでも
ある世の中に 馬鹿者が 議員になるのが わからない
議員というのは 名ばかりで 間抜けでふぬけで 腰抜けで
いつもぼんやり 椅子の番 唖かつんぼか わからない
PR
昭和十九年十二月三十一日
昭和二十年十二月三十一日
昭和二十一年十二月三十一日
海野十三敗戦日記 より
http://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card1255.html
海野十三は1897年生まれ。 この日記を書いたころは五十歳。妻が三十八歳、長女十六歳、長男十四歳、次男十二歳、三男が十歳、養母が六十四歳という家族構成だった。
◯一昨夜、敵三回目の空襲には油断があったらしく、両国、柳橋辺がちょっと燃えた模様。
もっとも、あのときは前に警報解除が出、それに情報を加えて「まだ一目標あり、警戒中」と警報したのを、警報解除に安心しすぎて寝てしまったらしく思われる。「正確なる判断」が要望される。
◯昨夜は珍しく敵機来らず。たぶんいつものように十時ごろに一回、一時ごろに第二回目、第三回は三時ごろくると思っていたのに、一回もこなかった。わが航空隊がサイパンへなぐり込みをかけた故か。それとも敵の方で歳末新年は生活に忙しいせいか。
私は壕に寝て、暁を迎えた。壕に寝るは寒く、身体が痛い。暁前の寒さがひとしおこたえる。目下下痢気味なのは、あるいは壕で冷えたせいか。
◯酒の特配に喜びなし。酒を呑まないためだ。煙草の特配に喜びなし、煙草は吸わないためだ。正月がくるというのに、一体何の喜びがあると身辺をふりかえったのに、三つの喜びがあった。一つは去る二十七日の敵機錐もみ撃墜のこと、第二は敵米英、ことに米の生産補充陣が大消費に喘ぎだしたというニュースしきりなること、第三に家族一同無事なること。
昭和二十年十二月三十一日
◯ああ昭和二十年! 凶悪な年なりき。言語道断、死中に活を拾い、生中に死に追われ、幾度か転々。或は生ける屍となり、或は又断腸の想いに男泣きに泣く。而も敗戦の実相は未だ展開し尽されしにあらず、更に来るべき年へ延びんとす。生きることの難しさよ!
さりながら、我が途は定まれり。生命ある限りは、科学技術の普及と科学小説の振興に最後の努力を払わん。
◯ラジオにて寛永寺の除夜の鐘の音を聞く。平和来。昨年は「敵機なお頭上に来りて年明くる」と一句したりけるが、本年は敵機もなく、句もなく、寝床にもぐり込む。
昭和二十一年十二月三十一日
◯大三十日(おおみそか)の特徴は、速達の原稿料払いが三つ四つもつづいたこと、荒木さんが印税を持って来て、これが終りであった。
こっちも最終の払いをすませた。小為替と小切手で二万二千円ばかり、現金にて五千円ほど手許にのこった。
◯岡東浩君来宅。葡萄液と角ハムとキャンデー四つとを貰った。
こちらはめじまぐろ[#「めじまぐろ」に傍点]で、少しばかりあった酒を出す。そしてニュージランドのオクス・タンの缶詰をあける。たいへん美味しいとよろこんでくれる。この缶詰は半年もあけずに辛抱していたものである。
◯萩原氏はこの家を売るという。財産税を支払うに金がないためであるという。この家を買ってくれと頼まれているが、四十三坪あって、値段は十五万円位と最初の噂であったが、もっとあげるつもりかもしれない。十万円ならなんとか出せると思うが、十五万、二十万では仲々たいへん、いろいろな無理な工作を要し、且つ無一文となるから、そんなに出して買いたくなし。都合によれば、はなれをのこして本屋だけを買い、家族の居住を確保しようと方針を定めた。
◯ヤミ屋と華僑とが街を賑かにして賑からしくやっているが、大多数の国民はそのそばを素通りするだけだ。恐ろしくはっきりと区別のついた別の世界がわれらの傍に出来た。こんなにはっきりと二つの世界が出現したのは始めての経験だ。松飾りも買わない正月(ヤミ屋をわざわざよろこばせてなにになるか)、かまぼこ[#「かまぼこ」に傍点]もきんとん[#「きんとん」に傍点]も街には売っているが、うちにはない正月(高いだけではなく粗悪で、とても買って来て届けられないと魚屋さんがいう)、汁粉屋だ中華料理だ酒だ何だと街には並んでいるが、そっちへは近づきもしない正月(ちがった世界の人々のために用意されたものであろう)――前の正月は、何にもなくてあっさりしていたが、こんどの正月はものがたくさんあって、しかもそれは買えないか、インチキもので手出しをすると腹がたつ、いやな正月である。昔、話に聞いた上海(シャンハイ)、北京(ペキン)やイタリヤの町風景と東京も同じになったわけである。しかし、これから先の正月は、更にそれが激化するのではなかろうか。
◯ラジオを聴きながら寝る。菊田一夫構成の「五十年後の今日の今日」の苦しさよ。そのうち除夜の鐘がなり出す、東叡山寛永寺のかねがよく入っていた。
海野十三敗戦日記 より
http://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card1255.html
海野十三は1897年生まれ。 この日記を書いたころは五十歳。妻が三十八歳、長女十六歳、長男十四歳、次男十二歳、三男が十歳、養母が六十四歳という家族構成だった。
一谷嫩軍記 組討の段
去る程に、御船を始めて、一門皆々船に浮かめば乗り後れじと、汀に打寄すれば、御座船も兵船も、遙かにのび給ふ。無官の太夫敦盛は道にて敵を見失ひ、御座船に馳着いて、父経盛に身の上を告げ知らすことありと、須磨の磯辺へ出でられしが、船一艘もあらざれば詮方波に駒を乗入れ沖の方へぞ打たせ給ふ。かゝりけるところに後より、熊谷次郎直実。「ヲヽイ/\」と声をかけ駒を早めて追っかけ来り、「ヤアそれへ打たせ給ふは平家の大将軍と見奉る。正なうも敵にうしろを見せ給ふか引返して勝負あれ。かく申す某は、武蔵ノ国の住人熊谷次郎直実見参せん返させ給ヘ」と、扇を上げて指招き、「暫し/\」と呼ばはったり。敵に声をかけられて何か猶予のあるべきぞ、敦盛駒を引返せば、熊谷も進み寄り、互ひに打物抜きかざし、朝日に輝く剣の稲妻かけ寄り、かけ寄せちゃう/\/\、てふの羽がへし諸鐙駒の足並かっしかっし。かしこは須磨の浦風に、鎧の袖はひら/\/\群れゐる千鳥村千鳥むら/\ぱっと、引汐に、寄せては返り、返りては又打ちかくる虚々実々。勝負も果てしあらざれば、「いそうれ組まん」と敦盛は打物からりと投げ給へば、「ムコハしをらし」と熊谷も太刀投げ捨てゝ駒を寄せ、馬上ながらむずと組む。「えい」「えい」「えい」の声の内、互ひに鐙を踏みはづし両馬が間にどうと落つ。すはやと見る間に熊谷は敦盛を取って押へ、「かく御運の極る上は、御名を名乗り直実が高名誉を顕はし給へ。又今生に何事にても思ひ残す御事あらば、必ず達し参らせん。仰せおかれ候へ」と懇ろに申すにぞ。敦盛御声爽かに、「ヲヽやさしき志。敵ながらあっぱれ勇士、かく情ある武士の手にかゝり死せんこと、生前(しようぜん)の面目。戦場に赴くより、家を忘れ身を忘れ、かねてなき身と知るゆゑに、思ひおくこと、更になし。さりながら忘れがたきは父母の御恩。我討たれしと聞き給はゞ、さぞ御歎き思ひやる。せめて心を慰むため、討たれし跡にて我が死骸、必ず父へ送り給はれかし、我こそ参議経盛の末子、無官の太夫敦盛」と、名乗り給ひしいたはしさ。木石ならぬ熊谷も見る目涙にくれけるが、何思ひけん引起し鎧の塵を打払ひ/\、「この君一人助けしとて勝軍に負けもせまじ、折節外に人もなし。一先づこゝを落ち給へ。早う/\」といひ捨てゝ立別れんとするところに、後の山より武者所数多の軍兵。「ヤア/\熊谷。平家方の大将を組敷きながら助くるは二心に紛れなし。きゃつめ共に遁すな」と声々に罵るにぞ、熊谷ははっとばかりいかゞはせんと黙然(もくねん)たり。敦盛卿しとやかに、「とても遁れぬ平家の運命。こゝを助かり行先にて下司下郎の手にかゝり、死恥を見せんより早く御身が手にかけて、人の疑ひはらされよ」と、西に向ひて手を合せ、御目を閉ぢて待ち給ヘばいたはしながら熊谷は御後に立廻り、弥陀の利剣と心に唱名、ふり上げは上げながら玉のやうなる御粧ひ。情なや無慚やと、胸も張裂く気後れに、太刀ふり上げし手も弱り、思ひにかきくれ討ちかねて歎きに時も移るにぞ、「アヽ後れしか熊谷。早々首を討たれよ」と捻向き給ふ御顔を、見るに目もくれ心さえ、「倅小次郎直家と申す者丁度君の年恰好。今朝(こんてう)軍の先駆けして薄手少々負うたるゆゑ、陣屋に残しをきたるさへ心にかゝるは親子の仲。それを思ヘば今こゝで討ち奉らば、さぞや御父経盛卿の、歎きを思ひ過されて」と、さしもに猛き武士も、そゞろ涙にくれゐたる。「アヽ愚かや直実、悪人の友を捨て、善人の敵を招けとはこの事。早首討ってなき跡の回向を頼むさもなくば、生害せん」とすゝめられ、「アヽ是非もなし」とつっ立上り「順縁逆縁倶に菩提、未来は必ず一蓮託生」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」首は前にぞ落ちにける、人の見る目も恥しと御首をかき抱き、くもりし声をはり上げて「平家の方に隠れなき、無官の太夫敦盛を熊谷次郎直実討取ったり」と呼ばはるにぞ。磯に臥したる玉織姫絶入りし気も一筋に、夫を慕ふ念力の耳に入りしかむっくと起き「ナウしばし待ってたべ。敦盛様を討ったとは、いかなる人かナウ恨めしや。せめて名残りに御顔を、一目見せて」といふ声も、深手に弱る息づかひ。見るより熊谷御首携へ歩み寄り、「敦盛を慕ひ給ふはいかなる人」と尋ぬれば、今はの苦しき声音にて、「我こそは敦盛の妻と定まる玉織姫。お首はどこに。エヽもう目が見えぬ」と撫廻せば、「ムヽなにお目が見えぬとや。ヲヽいとしや/\御首はコレコレこゝに」と手に渡せば、「わっ」と泣く/\しがみ付き、膝にのせ抱きしめて消入り絶入り歎きしが、「ナウコレ敦盛様。アヽはかない姿になり給ふなう。陣屋を出でさせ給ひしより御跡したひ方々と尋ぬる中に源氏の武士、平山武者所。我を見付けて無体の恋慕、だまし討たんも女業。この如く手にかゝり、二人が二人で悲しい最期。せめて別れた御顔が、見て死にたいと思へども、深手に心が引入って、目さへ見えぬか悲しや」と又御首を撫でさすり、「宵の管絃の笛の時、後(のち)にとありしお詞が、今生後生の形見かや。この世の縁こそ薄くとも来世では末ながう、添ひとげてたべわが夫」と、顔に当て身に添へて、思ひの限り声限り、泣く音は須磨の浦千鳥涙にひたす袖の海、引く汐時と引く息の、知死期と見えて絶果てたり。熊谷は茫然と、「エどちらを見てもつぼみの花。都の春より知らぬ身の今魂はあまざかる、鄙に下りてなき跡をとふ人もなき須磨の浦、なみ/\ならぬ人々の成り果つる身の痛はしや」と悲歎の涙にくれけるが、是非もなく/\玉織の亡骸を取りをさめ、母衣をほどいて敦盛の、御死骸をあけまき押包み、総角取って引結び、手綱をたぐり結付ける鞍のしほでやしを/\と、弓手は御首、携へて、右に轡の哀れげに、檀特山(だんとくせん)の、うき別れ悉陀太子を送りたる、車慝(しやのく)童子が悲しみも、同じ思ひの片手綱、涙ながらに
一谷嫩軍記
http://homepage2.nifty.com/hachisuke/yukahon/ichinotani.html#name5
侍大将が「我こそは…」と名乗りを上げてから合戦してたのは、源平合戦くらいまでじゃなかったかなぁ。
せいぜい太平記のころまでの「作法」のはず。
すでに平安時代末の義経は、奇襲戦法などでこの作法を無視し始めている。
元寇の時、義経の流れを汲む元軍は、日本の侍が名乗りを上げる「作法」を理解できなかった。*
戦国時代の武将は、あんまり合戦で名乗りをあげて戦ったりしなかったはずだよなぁ…
*(義経の流れ…は嘘ですw 念のため)
『保元物語』 官軍方々手分けの事
内裏にも此よし聞えければ、同五日、めされて参る武士は誰々ぞ。まづ下野守義朝・陸奥新判官義康・安芸判官基盛・周防判官季実・隠岐判官惟重・平判官実俊・新藤判官助経、軍兵雲霞のごとく召具して、高松殿に参じけり。彼等を南庭にめされて、少納言入道をも(っ)て、去二日、一院崩御の後、武士ども兵具を調て、東西より都へ入集る事、道も去あへず、以外の狼籍也。弓箭を帯せん輩をば、一々に召取(っ)て参上すべき由仰下さる。各庭上に■て是を承る。「義朝・義康は、内裏に侯て、君を守護し奉れ。其外の検非違使は、皆関々へ向ふべし。」とて、宇治路へは安芸判官基盛、淀路へは周防判官季実、粟田口へは隠岐判官惟重、久々目路へは平判官実俊、大江山へは新藤判官助経承(っ)て向ひけり。今夜関白殿、并に大宮大納言伊通卿已下、公卿参じて、議定有て、謀叛の輩皆めしとつて、流罪すべきよし宣下せらる。春宮大夫宗能卿は、鳥羽殿に候はれけるをめされければ、風気とて参内せられず。
明れば六日、検非違使ども、関々へ越けるに、基盛宇治路へ向ふに、白襖の狩衣に、浅黄糸の鎧に、うはおりしたる烏帽子の上に、白星の冑をき、切符の矢に、二所藤の弓もち、黒馬に黒鞍をきてぞ乗(っ)たりける。其勢百騎計にて、基盛、大和路を南へ発向するに、法性寺の一の橋の辺にて、馬上十騎ばかり、ひたかぶとにて、物の具したる兵廿余人、上下卅余人、都へ打(っ)てぞ上りける。基盛、「是は何の国よりどなたへ参ずる人ぞ。」と問せければ、「此程京中物忽のよしうけたまはる間、その子細を承らむとて、近国に候者の上洛仕にて候。」と答。基盛打むかひて申けるは、「一院崩御の後、武士ども上洛の由叡聞に及間、関々をかために罷むかふ也。内裏へ参る人ならば、宣旨の御使にうち列て参じ給へ。然らずはえこそ通し申まじけれ。かう申は、桓武天皇十代の御末、刑部卿忠盛が孫、安芸守清盛が次男、安芸判官基盛、生年十七歳。」とぞ名乗(っ)たる。大将とおぼしき者、かちん(の)直垂に藍白地を黄に返したる鎧きて、黒羽の矢負、塗籠藤の弓を持、黄川原毛なる馬に、貝鞍をいて乗(っ)たりけるが、すゝみ出て、「身不肖に候へども、形のごとく系図なきにしも候はず。清和天皇九代の御末、六孫王七代の末孫、摂津守頼光が舎弟、大和守頼信が四代の後胤、中務丞頼治が孫、下野権守親弘が子に、宇野七郎源の親治とて、大和国奥郡に久住して、未武勇の名をおとさず。左大臣殿の召によ(っ)て、新院の御方に参るなり。源氏は二人の主取事なければ、宣旨なりともえこそ内裏へは参まじけれ。」とて打過ければ、基盛百余騎の中にとりこめてうたんとしけるを、親治ち(っ)ともさはがす、弓とりなをして、散々に射るに、平氏の郎等矢庭に二人射落されて、ひるむところを、えたりやおうとて、十騎の兵轡をならべて懸たりければ、平家の兵叶はじとや思けん、法性寺の北のはづれまでぞひきたりける。
保元物語 「校註 日本文学大系」本
http://www.j-texts.com/chusei/gun/hogenall.html
その昔、富士通パーソナルズで販売していたスキャナMustek 600 CU/WN はXPに正式に対応してい。
富士通のサイトではサポート終了扱いなので、諦めていた。
しょうがないので、98SEのパソコンに繋いだまま使用していたが、実はXPでも使えたのでメモ。
製造元のMustek日本語のページにはwin2000対応のドライバまでしか無いけれど、英語版サイトに、日本語以外のXP対応ドライバが載っていた。
トップの http://www.mustek.com.tw/ から
support→scanner→model名入力 600 CU
でドライバの所にたどり着く。
User Guide Quick Guide Frequently Asked QuestionsのPDF も有る。
fixwinxp.exe Web.EXE Web.W02 Web.W03 Web.W04 を適当なフォルダにダウンロード。
fixwinxp.exe を実行。 再起動を促されるので、クリックすると再起動。
「ハードウエアの追加」ウイザードが立ち上がる。
機種名が表示されるので、そのまま設定を続けると、ちゃんと認識されて普通に試用可能。
ドライバそのものはwin2000対応版らしい。fixwinxp.exeはそれをXPにインストールするためのプログラムの模様。 Web.EXEを実行させたら「2000じゃない」と終了して、ちょっと焦ったりする。
Mustek 600 CU/WN はその昔(2000年頃?)1万円くらいで、安かったので思わず衝動買いしたもの。 当時は普通に2400とか4800の機種が売っていた頃だよなぁ。
付属ソフトが今ひとつ使いにくかったので、結局はコピー機としての利用が一番多かったな(苦笑
XPに対応していないと思っていたので、なかなか98SEのPCもお蔵入りさせることも出来なかったけれど、これで心おきなくXPに完全移行できそうだ。
それにしても、XPに対応していないと思っていたので、エプソンの複合機を買ってしまったぜ。
まんまとメーカーの思惑にはまってしまった。
付属のOCRソフト「読んde!!ココ」が結構使い物になるので、仕事で使うことにする。
OCRならば400とか600程度で十分なんだよなぁ、と思いバンドル品でMustek 600 CU/WNを使おうとするが…
付属の「読んde!!ココ」はネット接続していないと動かないし、エプソン以外の機種は対応していない。(取り込んだ画像ファイルを読み込むことは出来る)
結局正規版を購入。
というか、体験版を試用してみたらやはりバージョンアップの必要性を強く感じたから購入。 傾き自動補正などは、無ければ不便。 作業効率や表の認識度が、まるで違うし、そのほかいろいろ便利。
富士通のサイトではサポート終了扱いなので、諦めていた。
しょうがないので、98SEのパソコンに繋いだまま使用していたが、実はXPでも使えたのでメモ。
製造元のMustek日本語のページにはwin2000対応のドライバまでしか無いけれど、英語版サイトに、日本語以外のXP対応ドライバが載っていた。
トップの http://www.mustek.com.tw/ から
support→scanner→model名入力 600 CU
でドライバの所にたどり着く。
User Guide Quick Guide Frequently Asked QuestionsのPDF も有る。
fixwinxp.exe Web.EXE Web.W02 Web.W03 Web.W04 を適当なフォルダにダウンロード。
fixwinxp.exe を実行。 再起動を促されるので、クリックすると再起動。
「ハードウエアの追加」ウイザードが立ち上がる。
機種名が表示されるので、そのまま設定を続けると、ちゃんと認識されて普通に試用可能。
ドライバそのものはwin2000対応版らしい。fixwinxp.exeはそれをXPにインストールするためのプログラムの模様。 Web.EXEを実行させたら「2000じゃない」と終了して、ちょっと焦ったりする。
Mustek 600 CU/WN はその昔(2000年頃?)1万円くらいで、安かったので思わず衝動買いしたもの。 当時は普通に2400とか4800の機種が売っていた頃だよなぁ。
付属ソフトが今ひとつ使いにくかったので、結局はコピー機としての利用が一番多かったな(苦笑
XPに対応していないと思っていたので、なかなか98SEのPCもお蔵入りさせることも出来なかったけれど、これで心おきなくXPに完全移行できそうだ。
それにしても、XPに対応していないと思っていたので、エプソンの複合機を買ってしまったぜ。
まんまとメーカーの思惑にはまってしまった。
付属のOCRソフト「読んde!!ココ」が結構使い物になるので、仕事で使うことにする。
OCRならば400とか600程度で十分なんだよなぁ、と思いバンドル品でMustek 600 CU/WNを使おうとするが…
付属の「読んde!!ココ」はネット接続していないと動かないし、エプソン以外の機種は対応していない。(取り込んだ画像ファイルを読み込むことは出来る)
結局正規版を購入。
というか、体験版を試用してみたらやはりバージョンアップの必要性を強く感じたから購入。 傾き自動補正などは、無ければ不便。 作業効率や表の認識度が、まるで違うし、そのほかいろいろ便利。
今月からエクセルをバリバリに使う仕事をやり始めている。 忙しいぞ
で、まぁ家のパソコンにもエクセルをインストールすることにする。 仕事の持ち帰りは、あんまりしたくないのだが、しょうがない
ロータスOfficeとOpenOfficeは持っていて、以前は123を、最近はOOを少々使ってはいたが、互換性が今ひとつ。
マクロや計算式がちゃんと使える場合もあるのだが、微妙なところでうまく動かなかったりもする orz いちいち手直しするのも面倒くさいし…
ネットや書籍で入手できる、いろんなテンプレートやサンプルファイルも殆どがエクセル用。 さすがに業界標準なので、使わないわけにはいかない。
Office入り中古パソコンにしようか、とか、Office入りPCの新規購入なども検討したけど、今回はエクセル単体のみ購入。 ワードやパワポなどは使わないので、Officeとしての購入はしなかった。
で、インストール。 妙に時間がかかるなぁと思っていたら、いろいろ設定が勝手に変更されていたなぁ。
まずIMEがMicros Oftoffice IME2007に変わっていた。 OSについていたのが勝手にバージョンアップされた模様。
・コントロールパネル→地域と言語のオプション→言語(タブをクリック)→詳細
ここで常用のatokに戻す。
IEもバージョンが上がって、いろいろ設定が変えられているような気がするなぁ… アップデート以外には殆ど使っていないから、記憶が定かでないけれど。
前からIE7にしていたような気がするが、微妙に設定が変えられて、ちょっと悩む。 アップデートさせようとしたら、セキュリティソフトが邪魔をする。
ウイルスキラーを入れているのだが、これのIEツールバーというのが邪魔をしていた。 これはIE7未対応で、設定した記憶は無い。 それ以前には普通にwindowUpdate出来ていたはずなのだが、何故かインストールされていた。
ウイルスキラーサイトで対処法を確認して、ツールバーのみアンインストール。
その他にも、いろいろ変わっているかもなぁ。 だからMSって好きじゃない、
で、まぁ家のパソコンにもエクセルをインストールすることにする。 仕事の持ち帰りは、あんまりしたくないのだが、しょうがない
ロータスOfficeとOpenOfficeは持っていて、以前は123を、最近はOOを少々使ってはいたが、互換性が今ひとつ。
マクロや計算式がちゃんと使える場合もあるのだが、微妙なところでうまく動かなかったりもする orz いちいち手直しするのも面倒くさいし…
ネットや書籍で入手できる、いろんなテンプレートやサンプルファイルも殆どがエクセル用。 さすがに業界標準なので、使わないわけにはいかない。
Office入り中古パソコンにしようか、とか、Office入りPCの新規購入なども検討したけど、今回はエクセル単体のみ購入。 ワードやパワポなどは使わないので、Officeとしての購入はしなかった。
で、インストール。 妙に時間がかかるなぁと思っていたら、いろいろ設定が勝手に変更されていたなぁ。
まずIMEがMicros Oftoffice IME2007に変わっていた。 OSについていたのが勝手にバージョンアップされた模様。
・コントロールパネル→地域と言語のオプション→言語(タブをクリック)→詳細
ここで常用のatokに戻す。
IEもバージョンが上がって、いろいろ設定が変えられているような気がするなぁ… アップデート以外には殆ど使っていないから、記憶が定かでないけれど。
前からIE7にしていたような気がするが、微妙に設定が変えられて、ちょっと悩む。 アップデートさせようとしたら、セキュリティソフトが邪魔をする。
ウイルスキラーを入れているのだが、これのIEツールバーというのが邪魔をしていた。 これはIE7未対応で、設定した記憶は無い。 それ以前には普通にwindowUpdate出来ていたはずなのだが、何故かインストールされていた。
ウイルスキラーサイトで対処法を確認して、ツールバーのみアンインストール。
その他にも、いろいろ変わっているかもなぁ。 だからMSって好きじゃない、