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図書館で探し出して読んでみた。
1年くらい前の雑誌、冒頭の座談会が2月なんだが、なんだかえらく時間がたったような気がする。
時期的に言えば「はてな」と「mixi」が大きな存在になりつつあった頃といえばいいのだろうか。
そんなに面白くなかったというか、執筆者達が関わっているネット圏域と私の読んでいるネットの部分の重なりが少ないせいか、興味が持ちにくい。
だらだらした長文が多く、読む気がしないのもあった。いわゆるライターさんや編集者の文章が並んでいるだけ、という散漫さに、バブル期の「ギョーカイ」臭い馴れ合いに近いモノを感じたな。
なんちゅうか、なぁ…
ウェブ日記、個人ニュースサイト、テキストサイトに続くモノとしてのblogという視点で取り上げられている感じなのだが…
私は、いわゆる日記はほとんど関心がない。 どちらかといえば、政治系の方を見ていることが多いかな。 なぜ日記が流行る・はまるのかについては、やや興味があるけれど…、という程度。
この特集では、いわゆる「ジャーナリズム」は論じられていない。 日記サイトが多いブログ界をそのまま反映したような、自分語りの文章が多いことにウンザリする。
特集に登場したサイトのリンク集。
http://just-wanna-have-fun.seesaa.net/article/2804838.html
この中で現在も活発なのはどれくらい有るのだろうか? 確認してはいないけど、ひょっとすると半分以下じゃないのか? 雑誌上ではてなIDを晒していたが、現在プライベートモードになっている人もいるし。
上野俊哉+泉政文『接続者のしかばねの上に萌えるもの、あるいは工作車の逆襲』
という、ちょっと、なタイトルのものから引用。
日本でもブログ間で論争は有るのだけれど、いまひとつ活発じゃない印象がある(私のアンテナが鈍いだけかもしれないが)。
むしろ、2ちゃんねるとその「まとめサイト」が、英語圏のブログの役割を果てしているような気がするな。
どうでもいい感想としては、1975年生まれを中心とした世代がネット・ブログの中心になってきたのだなと、改めて感じた。
編集者・座談会出席者・執筆者、言及されるサイト運営者共々にこの世代が多いように見える。
1年くらい前の雑誌、冒頭の座談会が2月なんだが、なんだかえらく時間がたったような気がする。
時期的に言えば「はてな」と「mixi」が大きな存在になりつつあった頃といえばいいのだろうか。
そんなに面白くなかったというか、執筆者達が関わっているネット圏域と私の読んでいるネットの部分の重なりが少ないせいか、興味が持ちにくい。
だらだらした長文が多く、読む気がしないのもあった。いわゆるライターさんや編集者の文章が並んでいるだけ、という散漫さに、バブル期の「ギョーカイ」臭い馴れ合いに近いモノを感じたな。
なんちゅうか、なぁ…
ウェブ日記、個人ニュースサイト、テキストサイトに続くモノとしてのblogという視点で取り上げられている感じなのだが…
私は、いわゆる日記はほとんど関心がない。 どちらかといえば、政治系の方を見ていることが多いかな。 なぜ日記が流行る・はまるのかについては、やや興味があるけれど…、という程度。
この特集では、いわゆる「ジャーナリズム」は論じられていない。 日記サイトが多いブログ界をそのまま反映したような、自分語りの文章が多いことにウンザリする。
特集に登場したサイトのリンク集。
http://just-wanna-have-fun.seesaa.net/article/2804838.html
この中で現在も活発なのはどれくらい有るのだろうか? 確認してはいないけど、ひょっとすると半分以下じゃないのか? 雑誌上ではてなIDを晒していたが、現在プライベートモードになっている人もいるし。
上野俊哉+泉政文『接続者のしかばねの上に萌えるもの、あるいは工作車の逆襲』
という、ちょっと、なタイトルのものから引用。
ところが「はてな」と英語圏のブログ、たとえば「Slashdot」や「Indymedia」などとの違いを見ると愕然とする。とても同じツールとは思えない。あまり一般化はできないが、英語環境でのブログは「集団による思考や編集」のツールやプラットフォームとして評価され、使用されているように見える。ヘアート・ロヴィングが論じているように、ブログはウェブのもつ狭いパブリッシング(公表/公刊)を、よりネットの潜在的可能性に向けて開いていくものとして期待されている。したがって、身辺雑記や宛先のないレビューがポストされることはまれであり(それならばメーリングリストや掲示板で十分だ)、ブログの可能性はオープンで公的なフィルタリング(介入的編集)に求められる。つまり、特定の技能を持った一定数の編集者によってではなく、互いが潜在的に無数の編集者として機能しうる場としてブログは注目されている
日本でもブログ間で論争は有るのだけれど、いまひとつ活発じゃない印象がある(私のアンテナが鈍いだけかもしれないが)。
むしろ、2ちゃんねるとその「まとめサイト」が、英語圏のブログの役割を果てしているような気がするな。
どうでもいい感想としては、1975年生まれを中心とした世代がネット・ブログの中心になってきたのだなと、改めて感じた。
編集者・座談会出席者・執筆者、言及されるサイト運営者共々にこの世代が多いように見える。
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結局のところ、ブログ空間には、上下関係と感情と無関係に情報を伝達することが極めて難しい日本語の弊害がでていると思う。
本来フラットであるはずの場所でも、使い手がヒエラルキーをまとった言語をあやらざるをえないことにより、ヒエラルキーが生まれる。それが摩擦を呼ぶ。
2ちゃんねるがかろうじて英語圏のブログの役割を果たしている理由は、検索をさけるための野放図な用語づかい。意図的な変換ミスの容認などがある。そのことに留意すべきだし、2ちゃんねるのアンダーグラウンド性を打破しようとするなら、その機能を代用する工夫が必要に違いない。
まとめという作業は、サマライズという機能もあるが、情報と感情を切り離す。主体情報から客観情報に変換するという作業でもあるのです。
でも2ちゃんねるに代わるような仕組みが、いまひとつ出てきていないようにも思えます。
「2ちゃんねる終わった」という話は何回も出てるけれど、なかなか終わりそうもないですねぇ。
いい加減、終わらせなきゃいけないのだろうけれど。
というようなエントリーをアップしました。
ども、ども…。
2ちゃんねるはすでにエバーグリーンですよね。問題は、西村さんが損害賠償金を請求されつづけいること。西村さんに不良債権でありつづける人生を強いている現状を、2ちゃんねらーがやめさせないと、無責任だと感じている。
2ちゃんねるが終わったという人は、メディアに方向性を求めている人たちだと思う。そう考えているひとたちのほうが終わっている。メディアの参加者が増えていけば、多様性は深まり、方向性は弱まるにきまっている。
もし、問題があるとすれば、というか、2ちゃんねるが世の中にアクティブに機能することを望むならば、内容をオーソライズする機能やシステムが必要だと思う。たとえば、テンプレートがそのまま、WIKIPEDIAになってもいいのかもしれない。
もちろん、WIKIPEDIAは、非オーソライズ情報としての殿堂であって、オーソライズ情報の殿堂ではない。だが、そんなものだとしてもアクセス可能な殿堂があり、そこにストレージされていくことは重要だと思うのです。
つまり、サマライズとオーソライズの切り離しが重要だということです。
また、オーソライズされたとしても、そのオーソライズする個・集団のバイアスからは逃れられない。そういうものなんすよね。