[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
笙野氏の戦いの軌跡は、論争相手の一人でもある小谷野敦さんのblogが詳しいかなぁ。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20061204
発端は、『読売新聞』紙上で某記者が、「最近の純文学は面白くないという気分」が広がっている、と書いたことに端を発している。これに、前衛実験小説の書き手笙野が怒り、純文学擁護の「論争」を一人で始めたのである。しかし、誰も相手にしなかったので笙野は、『群像』など、『少年マガジン』が売れているから出せている、などとサブカルチャー勝利者論を出した大塚英志にからみ、ミステリーで稼いで評論を書いており、文学の保護など必要ない、と書いた笠井潔にからみ、といった具合だったが、笙野のあまりの剣幕に、多くの人が恐れをなして、反論はおろか、「ちょっと違うのでは」と言うことさえを試みなかったように見える。
その後の経過は、ここが詳しい。
「文学に意味はないというお前に意味はない。オレが文学だ。オレこそが「批評」だ。純文学作家笙野頼子」
http://inthewall.blogtribe.org/entry-e5c6ea45fca1ede347df09b8f2ba10fb.html
論争をまとめた本「ドン・キホーテの「論争」」の続編「徹底抗戦!文士の森」についてのエントリーです。(長文注意)
笙野氏が『新潮』2006年12月号に小説「竜の箪笥を、詩になさ・いなくに」を発表。
坂東氏の名前を直接出さず、独特の文体・語彙で批判したモノらしい。
「おはよう、水晶――おやすみ、水晶」(「ちくま」に連載中・2006年11月号参照)
講談社文庫『幽界森娘異聞』あとがきにも、子猫事件についての言及が有るらしい。(追記)
そして毎日新聞2006年12月19日 東京夕刊。
笙野頼子さん:批判の言葉研ぎ澄まして、小説「竜の箪笥を、」発表
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/archive/news/2006/12/19/20061219dde014040055000c.html
笙野頼子氏の日本文藝家協会十一月理事・評議員合同会議事録での発言
こっちのurlのほうが良いのか?
http://wiki.livedoor.jp/restless_dream/d/Stastement/%e3%f9%cc%ee%cd%ea%bb%d2%C8%AF%b8%c0
この件について小谷野氏がblogで言及
2006-12-20 匿名批判、その他 http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20061220
……
一応また書いておくけれど、私は笙野頼子氏が書いたのは、どうも「読めない」。
研ぎ澄ました言葉と言われても困惑するしかないぞ。
なんちゅうか…「文壇」の中の、さらに狭い「純文学」という場での局地戦という印象しか無いけどなぁ。
【追記】
笙野頼子氏の小説、評論を読んだことはないが、「仔猫」関連の発言を歓迎する人、「批判の言葉研ぎ澄ましている」という記事しか読んでいない人は、とりあえず、以下のリンク先を読んでほしいぞ。
河出書房の立ち読みサイトです。
http://www.kawade.co.jp/browse/001712.html
http://www.kawade.co.jp/browse/001758.html
笙野頼子 直筆POP (1ファイルにまとめました)
念のためですが、群像新人文学賞、野間文芸新人賞、三島由紀夫賞、芥川賞、伊藤整文学賞を受賞した作家の文章と字です。
日本文藝家協会十一月理事・評議員合同会議事録より
事件後、ネットで坂東さんのエッセイを絶賛し始めた人がいる。子猫殺しをブラックユーモアとして堪能したなどと。その上で、プロモーションと思えぬほど面白かったと言うような投稿もあった。ネット上の議論にも恐怖を覚える意見があった。
このネット上の議論というのは、当時乱立した2ちゃんねるスレじゃないのか??
笙野氏の文章がスレに貼られていたら、私はスルーするぞ。
以下に転載の転載
坂東眞砂子氏 子猫殺し公表でポリネシア政府が告訴 その後
http://www.hpmix.com/home/mamorekenpou/C2_1.htm#376
相変わらず、っぽいなぁ「ペット過剰愛好家たちを中心としたヒステリックな反応」「ファシストの精神性」
「ネット上での非難、中傷、攻撃の『炎上』」
笙野頼子氏が、批判を続けている。
笙野頼子/坂東眞砂子「子猫殺し」事件についての発言
日本文藝家協会十一月理事・評議員合同会議事録より
http://wiki.livedoor.jp/restless_dream/d/Stastement/%e3%f9%cc%ee%cd%ea%bb%d2?%b8%c0
12月19日付夕刊の毎日新聞と東京新聞に、この発言を受けた記事があるらしい。
議事録を見て、疑問に思ったところ
事件後、ネットで坂東さんのエッセイを絶賛し始めた人がいる。子猫殺しをブラックユーモアとして堪能したなどと。その上で、プロモーションと思えぬほど面白かったと言うような投稿もあった。ネット上の議論にも恐怖を覚える意見があった。
はて?? そんな議論が有ったか???
坂東・笙野両氏の「恐怖」を覚えるツボが、相当にずれていて対話が不可能な状態だなぁ。
…というか、ご両人とも論争が上手とは、とても思えない。
笙野氏は長年各方面と論争をしており、戦っているのだが……
怒っているのは解るが…… 正直言って、私は彼女の書いたものが読めない。
坂東氏のほうは、まだ理解可能な部分が多いが…
「直木賞vs芥川賞 女の戦い」とかネタにされそう
ドン・キホーテの「論争」 笙野頼子 (著)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062099144
出版社/著者からの内容紹介
マスコミvs「純文学」
最前衛の文学的レジスタンス、それは極私的言語の戦闘的保持!
「私はピエロじゃない。私はドン・キホーテ。」
はじめに──純文学作家はなぜ怒ったのか
発端──マスコミ言語の理不尽
仕掛け・斬り込み──戦う純文学、マスコミイエローへの抵抗
不発・冷笑──黙っている方が大物に見えるか
不戦勝・終結──極私的言語の戦闘的保持
予兆・背景──純文学叩きは10年前からあった
新聞の仕事──「誰も読んでない」、はずはないのだ。
J文学・純文学──勝手な定義はやめてくれ!
そして──汚辱の文芸ノートは「消滅」した
後書き──マスコミ批判に、メディアを与えたのもマスコミである
もうひとつの後書き──「マスコミイエロー」を実名報道する時
【仔猫殺し】坂東眞砂子vs笙野頼子(2)へ続きます
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060922k0000e040085000c.html
Kitten-killing novelist defends actions :英文(写真有り)
http://mdn.mainichi-msn.co.jp/national/news/20060922p2a00m0na015000c.html
作家個人の立場表明という感じ。
避妊に強い拒否感が有ると言うことはわかるのだが…
「寄稿」と有るが、はからずも動物愛護週間と重なったので、毎日新聞が記事を依頼したような気がする。 記者も取り扱いに苦慮している感じ。 動物愛護の話に持って行こうとしていたが、倫理観の話になって困惑しているように思える。
英文記事では、事件の経緯と坂東氏の文章のみの掲載だ。
活字媒体では、どうなんだろうか、いわゆる動物愛護の立場で正面から論じられたのが、まだ少ないという印象。(まとめwikiの情報だけど…)
動物愛護週間なのだから、関係団体とか、もう少し発言など有ってもいいと思うが、新聞雑誌は議論を避けてるような印象がある。
いわゆる「ネット世論」の取り扱いに苦慮している感じ。
とりあえず、坂東氏の文章について少々解説(?)のようなものを
タイトルの「子猫を殺す時、自分も殺している」は、自伝的小説『わたし』の惹句(小説内にも似たような表現がある)からの流れだろう。
「わたしは人を殺してきた。祖母を、父を、母を、そしてすべての人々を。衝撃の自伝小説。」
言論弾圧についての坂東さんのイメージは、かなり古いのではないか?
『梟首の島』は自由民権運動をえがいた小説なので、そこあたりの雰囲気で使っている言葉のようにも思う。(小説は未読)
ナチスドイツや日本のハンセン病患者への断種手術については、最近このテーマ近辺で小説を書いたか、書こうと取材をしているのじゃないかなぁ?
生き人形作家、堀佳子さんとは友人関係らしい。
坂東さんの避妊のイメージというのは、堀さんの生人形写真のようなものかなぁ?
生き人形 堀佳子の世界〜 Yoshiko Hori [Iki Ningyou]
http://www1.linkclub.or.jp/~yukiwo/
「日本の女」の真実の姿 (堀佳子 生き人形展 パンフレット寄稿文)
http://www1.linkclub.or.jp/~yukiwo/Hori/exhibition/kaikou_panf.htm
2005年発表 球体関節 65cm 「虚無への供物」(注:写真への直リン)
http://www1.linkclub.or.jp/~yukiwo/Hori/photo/19/kyomu_04.jpg
彼らも叩かれてはいるが…というか、この件がネットで話題にされていること自体、叩き目的なんだろう。
とはいえ、当時(20年前?)の叩かれ方もいささか牧歌的だったような印象も。
現在は動物愛護法を中心とする議論なのが興味深い。
呉智英が池上俊一『動物裁判』(講談社現代新書)に言及しているが、日本人の法意識が変化しつつあるのかなとも感じるな。
左右新旧とか地域差じゃぁ説明つかない気がする。 ペット観の違いなのかなぁ?
・坂東氏の行為
・崖から投げ捨てること
・その理屈
・それを載せる日経新聞
と分けて書いてみる。
「間引き」を非難するのは、いきすぎだと考えている。
崖から…は まぁ、有りだと思っている。 川に流すのが伝統的方法だとは思うが、しょうがない。
その理屈
ペットの間引きと言えばいいのに「子猫殺し」という過剰な意味づけをしちゃっているところに、最大の問題があるように思う。
自分の気持ちと猫の気持ちを重ね、避妊ではなく間引きを選ぶという理屈は、かなり個人的な事情によるもので、理解されにくいだろう。
「猫はあくまでもペットであり、避妊も間引きもやむなし」と言い切るならば(わしはこの立場)ひとつの態度として、一貫していると思うのだが…
坂東氏は自分の気持ちと猫の気持ちを重ねているが、これは批判者とも共通する感情だ。 そこあたりで、奇妙に論理が混乱している。
「ホラー作家」だから非常識…のようなありがちな偏見は、ちょっとなぁ… 常識や良識を強く意識するからこそ「非常識」の部分が書けるわけだから。
ただ、その「常識」の分析に独自の偏向が有るようだ。
日経新聞は、特に悪くないと思う。
文頭に「糾弾されるかも…」という断りはあるし、これで青少年に悪影響というのは言いがかりのように思う。