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鉄輪へ兄姉は行かなかったのだろうか? 既に嫁に出たか、独立してたのかな?

鉄輪では、収入が不安定だったようだが…
いきなり油絵を始めるというのは、かなり大胆だと思う。 絵の具や筆など道具を揃えるのも、けっこう金がかかる。

高校生の時のエピソードでは、2度ほど大人から「ぼく」呼ばわりされている。
町内風呂に入浴中、女子高生が彼の存在を無視して湯船に入ってきたりする。
アルバイト先での扱われ方も、子供扱いで、ひ弱っぽい。
小中学生に間違われるような少年だったのだろうか?

油絵の技法を古本で研究。 ギターも教則本で独習。
学園ストの件など、大人に習うのが不得手なのかな。 芸大も、結局飛び出すことになったし。

上京後は一人暮らしなのかな?
兄姉のところに転がり込んだりしなかったのだろうか?

兄は旅行会社社員だったらしい。 海外旅行には、兄のアドバイスも有ったのだろうか?

当時の美大事情はどうだったか? 昔から芸大の競争率は高かったはずだが…
70年代だと頂点に東京芸大、そして武蔵美・多摩美があって、専門学校だが桑沢、てな感じだったかな。

後年、芸大出身というのは、やはりある種のブランドにはなったと思う。 坂本龍一が「教授」と呼ばれるようなものだ。

インドで最初に撮ろうとしたのは、太陽に向かって1495メートル歩いた足跡の記録。 現地役人の証明書を付けて画廊に売り込もうとしていた。

http://orz.sankinkoutai.com/fuziwara_zasi_asahi.htm
『アサヒグラフ』に寄稿した経緯は、海外旅行の資金がほしく、出発前に『アサヒグラフ』に金を貰いに行った。 
その時、編集長は藤原新也の旅に対する思いよりも、そのチンピラぶりに感心し、お金とフィルムをあげたらしい。

あの当時、カラーで撮りまくるのは金がかかる。 

パルコ広告のアートディレクターだった石岡瑛子は、芸大の先輩。
当時の写真雑誌編集部に芸大出、というか現代美術に詳しい人はいただろうか? アサヒグラフだって、芸術のための雑誌ではない。
石岡瑛子に見いだされた、というのは有る意味必然だったかも。
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