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あさま山荘の外観の写真は、ネットにいくらでも転がっているけれど、内部の間取りというのはなかなか見つからない。
この本は周囲の地形を含め、写真、図版が豊富です。 
あさま山荘がいかに攻めにくくて大変だったかが、詳しく解説されている。

現場にいた人ならではの、かなりの怒りを込めて書かれた、力の入った本です。

爆発物処理班に、種馬に種付けをする技官の半分の危険手当しか支給されない。
外国から学んできた爆発物処理の最新技術・窒素凍結法も、事務官・技官の対立で配備が進まない。
マスコミは、警官に殉職が出れば「警備失敗」と書き立て、過激派に死者が出れば「過剰警備」と罵る。
警官が銃や鉄パイプで武装した集団に襲われ拳銃を使用しても、銃の発砲が問題視される。
その警官の名前が晒されて、非難され、テロの標的にされる。
浅間山荘事件では、県警と警視庁が対立する。
県警の写真は使い物にならない。 無線は混線する。 
防寒具が届かない。 弁当が凍る。 民間人が勝手に進入する。
車は故障する。 ポンプが非力で水が溜まらない。
部下の殉職に指揮官が涙を流せば「男が山中で泣いて女々しい」と書かれる。
旧社会党の議員は事件直後、連合赤軍はたった5人で1400人の警官と戦った、革命は近い、と喧伝する。
あさま山荘事件の超勤手当は、報道関係者の10分の1だった。

…等々

あさま山荘事件の前史である、大学紛争等での攻防は「東大落城 −安田講堂攻防七十二時間」のほうに詳しい。
建築専攻の学生が作ったバリケードは、釘・針金ロープを駆使した、非常にやっかいなモノだった。 
バリケード内のゴミだらけの汚い様子、バリケード内の学生を検挙するとき彼らが無抵抗になる様子。
催涙弾採用が海外の暴動鎮圧を参考にしてたという経緯なども興味深い。

当時の社会状況、世論の変化などについては、佐々の本の方が左翼活動家が書いたモノより、いささかの客観性があるように思う。
67年羽田空港武装闘争あたりで、学生運動/新左翼は世間からずれていったのかな、などとも思う。


ネットで見つけたパトリシア・スタインホフ 「連合赤軍」の一節。
警察の戦術と連合赤軍について、次のように考察しています。

 1968年、69年を激しい街頭闘争で闘ってきた活動家の人たちには反論があるかもしれないが、この辛抱強い包囲と最小の武力行使という戦術は、60年代の反体制闘争に対して日本の政府がとってきたもっとも代表的な戦術だったと言える。この戦術の結果、日本全国に広がった広範囲な闘争は縮小し、戦闘化していった。
それは日本政府の、提起された諸問題の本質にかかわることを徹底的に拒否する姿勢と相俟って、大きな社会的な圧力となり、赤軍派を生み、革命左派を生み、ひいては連合赤軍を生み出すことになったのである。
 警察の戦術がこのような結果をもたらしたのは、日本の警察はデモ隊に突然発砲したり、戦車で轢き殺したりすることは絶対にありえないという前提のなかで反体制運動は生きのびることができたのだし、同志を集めることも、その目的に対し世間の共感を得ることもできたからである。同時にそれは、もう少しで手の届きそうな勝利を前にしての絶えざる敗北という事態を生み、挫折感と内部分裂によって闘いの力を弱めていくことにもなった。
 このような状態は、革命に関わっている人間に革命的変化への希求をつのらせ、挫折感を乗り越えるためには実力闘争をエスカレートさせて、新たな戦術をもって警察権力と対峙するしかないという意見が説得力を持つこととなった。このようような闘争を沈黙のうちに支持していた人びとは、実際に行動に参加していた人びとの何倍もいた。



『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文春文庫)
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連合赤軍関係者は、各々に読み応えのある手記を書いています。
手記を書くまで、出版するまでも、いろいろ波瀾万丈です。

まず、裁判の方針でかなり揉める。 そうこうしているうちに、1973年1月1日 森恒夫が自殺。
1975年 日本赤軍による同志奪還闘争(クアラルンプール事件)が起こる。 指名された坂東国男は出国。 坂口弘は出国拒否。
1977年8月 統一公判を共にやっていた吉野雅邦が、分離公判に廻る。
1977年9月 ダッカ・ハイジャック事件。 植垣康博が指名されたが、出国拒否。

「仲間」同士の批判・反論・再反論が激しい。 
獄外の党派とも議論しているし、かつての袂を別った旧幹部との議論もやっている。
時々、政治的アピールを、支援者を通じて雑誌に発表してた。
この当時に書かれたモノは、左翼用語満載の論文というか檄文というか…

永田と坂口は、逮捕後は絶縁状態。 このとき間に立った、というか永田をサポートする側に廻ったのが植垣康博。
植垣のサポートで、永田が手記を書くようになった。

永田洋子の「16の墓標」(1982)は、いわゆる左翼用語をなるべく排して、自身の半生を訥々と、事件を淡々と記述している。
事件関係者が、ほとんど始めて一般向けに書いた手記だった。

それを受けて、坂東邦夫の『永田洋子さんへの手紙』(1984)が出版される。

この両書は、幹部の立場から書かれたモノ。 政治路線とか、闘争方針についての記述・議論も多い。 革命左派幹部の永田、赤軍幹部の坂東という立場から、いろいろ議論・総括をしているという感じ。

植垣康博も「兵士たちの連合赤軍」(1984)を出版。 こちらは兵士としての立場で書いていて、実際の活動の具体的な話が多い。

この間にも裁判が続いているわけで、その方針で様々な対立があったりするのだが…

1993年、最高裁の上告棄却に合わせる形で、坂口弘が『あさま山荘1972』を発表。
これは、「検察のストーリーでの国策裁判は納得できない。自身で事実関係を明らかにして、自分で判決文を書く」といったような本だ。


懲役20年だった人達もこのころは出所し始めており、いろいろ故人の手記とかインタビューが発表され始める。

これは佐々淳行の著書が売れてきたのに対抗した、という側面も有る。
「東大落城―安田講堂攻防七十二時間」が1993年、『連合赤軍「あさま山荘」事件』が1996年の出版だけど、これはちょっと前からの雑誌連載をまとめたモノだったはず。

事件から30年経過したことで、当時未成年(19歳)だった加藤倫教も『連合赤軍 少年A』(2003)発表。
バブルの頃の思い出話を、最近あちこちで読むなぁ。
(と言っても極東blogと溜池通信だが)
それよりも10年以上も前のことだと、もっと大昔かも。

Q:万博といえば?

この質問に「大阪」と答える人には必要ないかもしれないけれど、「つくば」が思い浮かぶ人に向けて連合赤軍のことを書くには、時代背景の解説が必要かもしれない。

新幹線は1970年開通だが、当時SLも普通に走っていた。
東京から札幌へ行くには「♪上野発の夜行列車…」に乗り、翌朝に津軽海峡を青函連絡船で渡っていく時代。

当時の東京都庁は、東京国際フォーラムが建っている所にあった。
霞ヶ関ビル竣工が1968年、京王プラザが71年で、72年当時超高層ビルは5つしかない。
東京タワー建築が映画になるのなら、連合赤軍事件は新宿の超高層ビル建設を背景にする必要が有るかなぁ?
新宿は、新宿争乱、新宿西口反戦フォークゲリラとか、事件の現場でもあった。

東京拘置所が巣鴨にあった。1971年に小菅に移転。
巣鴨プリズン(A級戦犯が入っていた)→東京拘置所(過激派も収監されてた)→サンシャインビル(開業は1978年)

過激派は主に府中刑務所に入れられてたのだったかなぁ?
その近所は3億円事件の現場だったりする。

その他の詳しいことは、坪内祐三『「一九七二―「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4167679795/
が詳しい。

内容(「MARC」データベースより)
1972年。そのとき私は14歳だった-。日活ロマンポルノが摘発され、南沙織が紅白出場、連合赤軍あさま山荘事件が起こった年を知らない若者におくる新感覚の文化評論。『諸君!』連載

内容(「BOOK」データベースより)(文庫版の紹介)
連合赤軍があさま山荘にたてこもり、宮の森シャンツェに3本の日の丸が揚がった年は、今太閤が列島改造を叫び、ニクソンが突如北京に赴いた年でもあった。高度成長期の生真面目さとエンタテインメント志向の萌芽が交錯する奇妙な季節。3億円事件を知らない世代に熱い時代の息吹を伝える、新感覚の文化評論


諸君連載中は、安室奈美恵が紅白のトリで歌っていた。
主に週刊誌の記事を取り上げて、あの時代を検証していくという体裁。
日本語ロックについても、かなり濃いかも。

初めは連合赤軍にそれほど項を割くつもりはなかったらしいが、調べているうちにどんどんとはまって脹らんでいくのが、雑誌連載ならではの面白さ。
当事者たちの手記を比較検討しながら、事件全体と、そのきっかけを探る手法に、推理小説のような雰囲気も有った。

「赤ん坊」報道のエピソードは、他の本にはあんまり出てこないと思う。

「総括」のきっかけとなった遠山氏のことも興味深かった。

大塚英志「彼女たちの連合赤軍」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4044191093/
では、彼女は髪・化粧・指輪の女性性の問題として、また「かわいい」という言葉の内容が主に論じられています。
しかし、「軍」を自称する組織で幹部の妻であったこと、指輪が母の形見であったことなど、改めて考えさせられた。

あと、角間隆「赤い雪―総括・連合赤軍事件」を、ぼろくそに批判してます。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/479749252X/
wikiの記述に若干の補足など
なんか、抗議・訴訟とか結婚のことが大きくとりあげられるばかりで、アンバランスだとは思う。

http://ja.wikipedia.org/wiki/坂口弘
他者の著作に対する抗議・訴訟

坂口は「あさま山荘1972」等の著作を発表する一方、同事件に対する他者の著作については当事者として盗用への抗議や内容に対する訴訟を行っている。
立松和平「光の雨」(「すばる」発表版)に対する抗議

立松和平が文芸誌「すばる」で連合赤軍事件を題材として連載を開始した「光の雨」につき、自作「あさま山荘1972」に内容が酷似している箇所があると抗議した。立松はこの抗議を認めて謝罪し、「光の雨」の連載は中止された。「光の雨」は後に構想を改めて発表される。

佐々淳行「連合赤軍『あさま山荘』事件」に対する訴訟

佐々淳行の著作「連合赤軍『あさま山荘』事件」において、自作の短歌を無断で改変(読点を追加)して引用されたことと、記述内容において名誉を毀損する表現(当時の他の爆弾闘争に関与したかに見える点、逮捕時に臆病者であるような描写のある点)があったとして佐々と出版元の文藝春秋社を相手に提訴した。1審の東京地裁は短歌の改変による著作者人格権侵害と、名誉毀損のうち爆弾闘争との関与に関する部分を認めた。1998年、東京高裁の上告審でも同じ判断が示され、坂口の勝訴が確定した。


小説「光の雨」に対する訴訟は1993年です。
「あさま山荘1972」発表が前年で、けっこう話題になった記憶がある。

ここが詳しい。
http://www12.ocn.ne.jp/~chi0010/hikari.htm

佐々淳行「連合赤軍『あさま山荘』事件」に対する訴訟は1996年


教訓:引用は慎重に  …なのかな?
とりあえず主な関係者、言及するだろう人達の生年をまとめてみた。

塩見孝也   1941年生
川島 豪   1941年生
田宮高麿   1943年生
永田洋子   1945年生
坂口 弘   1946年生
坂東國男   1947年生
笠井潔    1948年生
上野千鶴子  1948年生
吉野雅邦   1948年生
植垣康博   1949年生
加藤能敬   1949年生(1972年当時22歳)
加藤倫教   1952年生(1972年当時19歳)
加藤元久   1956年生(1972年当時16歳)

坪内祐三 大塚英志 1958年生(1972年当時14歳)
東浩紀  北田暁大 1971年生


浅間山荘事件で最年少だった加藤元久と、坪内祐三・大塚英志は二つ違い。
つまり1958年生まれが現役で高校入学すると、3年生に加藤元久の同級生がいるという関係。

加藤元久が高校に入学した頃は、大学紛争が高校に飛び火していた。 まぁ、政治活動から男子の長髪解禁運動とか制服廃止運動まで、いろいろあった。

1960年前後に生まれた高校生に、教師は直近の思い出として高校紛争のことを話したりもする。 部活などやっていると、伝説の先輩という形で武勇伝が語り継がれていたりもする。 大学とか職場によっては、先輩の友人の友人は活動家という距離感だ。


大塚英志「彼女たちの連合赤軍」
1994年雑誌初出だった。
この当時の大塚は、団塊世代批判論のようなのを多数書いていた。
盛んに上野千鶴子に論争ふっかけていたという印象。 
連合赤軍については、とりあえず共通の事実関係の認識は共有できていたと思う。


坪内祐三『一九七二―「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』
こっちは2000年からの「諸君!」での連載をまとめた本。
連載のきっかけは、若者(団塊ジュニア?)と昭和の話(3億円事件)をしていて、話が通じなかったことだったそうだ。
「この連載は団塊ジュニアに向けての歴史解説という役目があるかも」という意識は、若干は有るように思える。
彼は、2000年当時の大学生に向けて1970年前後の大学紛争の話をする困難さを感じていたのだろう。


映画「光の雨」監督: 高橋伴明
これは2001年公開。
連合赤軍事件の映画化に挑むスタッフとキャストたちの姿を描いた群像劇、という構成になっている。
この映画は、実は同名小説の映画化というのとは、ちょっと違う。 立松和平が小説「光の雨」をなかなか書けなかった事件もストーリーの中に取り込むという、ちょっと複雑な構造になっている。
団塊世代の監督(劇中の監督と、現実の監督の両方)と若い役者・スタッフとの意識のすれ違いもテーマの一つだ。


東浩紀/笠井潔 「動物化する世界の中で―全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評」
2002年の2月から、その年の暮れにかけて集英社新書ホームページ上で公開された往復書簡をまとめたモノ。
1948年生まれの笠井潔と、1971年生まれの東浩紀とで、まるで話が通じていない。


北田暁大 『嗤う日本の「ナショナリズム」』
北田も1971年生まれ。 この本は2005年に出版された。
北田にとって連合赤軍事件は、もはや遠い過去の出来事で、文献による「研究対象」とされているという印象がある。



11月1日、毎日新聞に若松孝二監督「実録・連合赤軍」の記事が載った。
若松監督は「事件当時に若者だった団塊の世代の人たちや今の若い人に見てもらい、あの事件が残したものを考えてほしい」と話しているようだ。
「今の若い人」にはたして届くのだろうか、かなり疑問を感じているのだがなぁ。

さて、ここではどうやって書こうか…
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