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映画「ダーウィンの悪夢」に類する騒動は70年近く前から有ったのだなぁ、などと思ったので、全文引用してみる。
一九四〇年に書かれた小熊秀雄の評論です。 
(以下 改行は引用者)




  近頃の感想  ――ガンガデインに就て

 映画はあまり見ない。さういふものを見てゐる時間が惜しいし、それに忙しいから。もう一つの映画を見ない理由のうちには、期待して観に行つてガッカリさせられることが多いので、殊に日本映画に対する、失望感は私にとつては濃いものがある。それでゐて外国映画であれば、妙に愚劣な映画の筋のものでも面白がつて見る。画面から受ける迫力が、どうしても外国のものの方が、人間的なものに感じられる。俳優そのものもカメラにぶつかつてくるやうな、緊迫感と圧力がある。ところで日本映画は、いつも書面[#「畫(画)面」の誤記と思われる]がだぶだぶ[#「だぶだぶ」に傍点]にダルんでゐて、画面と観客の中間を、空々しいものが流れてゐる感じだ。

ガンガデインといふ映画が封切られるといふので、是非見たいものだと思つてゐた。その興味をそそつた理由とは、場面が印度であることと、英国の守備兵と、印度土匪との闘争映画だからで、これに類したものを私は何か見たやうな記憶がある。今度のガンガデインはなかなか大掛りなもので、原作が詩人のキプリングのものだといふので一層興味を感じてゐた。

ところが在京の印度人団体から、ガンガデインは印度人を非文明視し、侮辱的な映画であるからと、当局にむけて上映反対運動をしたとかでとうとう上映をしないことになつてしまつた。私はがつかりした。同時に癪にもさはつた。考へてみるところ このガンガデイン上映反対の在京印度人の団体などは、実に形式的な団体のやうに考へられる。何故堂々と上映された上で、団体の意思を発表するといふ方法をとらなかつたのだらう。日本人が全く批判力をもたない国民であるかのやうに、横槍をいれて上映を禁じようとし、またそれに甘く応じて上映しなかつたといふことも今後もあることだと考へものだ。今後は印度人のでてくる映画は、みな在京印度人の団体に横槍を入れられて、当局者は遠慮するであらうが、映画はそれでいゝとして、日本人の書いた印度旅行記がどんなものであるか、一度印度人は眼を通してみたらいゝのである。

 私は印度の対英関係に興味があるので、いろいろと印度旅行記を読んでみたが、この旅行記の限りでは、どうも印度をお世辞でも文明人と見ることができないのだ。手近なところで、「世界地理風俗大系」を見てもわかる。専門の印度旅行記に至つては、チップ強要、ペテン、詐欺、窃盗の危険区域を旅行するときのやうな注意が書かれてゐる。

 印度人にも種類があらう。またさういふ旅行記は、頭から信用はしない。独立運動のあることも知つてゐる。しかし独立運動が旺んでもあらうが、寺院参拝に浮身をやつす印度人の数の方がまだ多いことは確からしい。ガンガデインなどといふ、映画の上映禁止の運動で、在京印度人が、団体のケチな動きをみせるよりも、もつと大きな動きといふものもありさうなものである。ガンガデインでは英国の三人の軍曹の英雄的行動が主で印度人土匪の反乱を扱つてゐるわけだが、勿論、筋は土匪の敗北で結んでゐることは見なくてもわかつてゐる。印度人団体がこの映画上映を反対とする理由が、もし印度人はすべて文化人であつて、英国に反乱せずといふのであつたらまだ話がわかつてゐる。何故なら、さういふ意味での文化的印度人は少くないらしい。

私がガンガデインを見たい心理は、それがトリックであらうが、刈り集めのヱキストラであらうが、非文化的な印度人土匪であらうが、素朴な叛乱などといふ形式に於いて、英国人に反撃を加へてゐる印度人の姿を見たかつたからにすぎない。ガンヂーの運動は、この映画の土匪の叛乱などに較べたら、ずつと紳士的で文化的なものかもしれないが在京印度人団体が、一本や半本の印度人の出てくる映画に横槍をいれて、それを禁止させても、どうにもならないやうな印度の実情といふものが、日本人に案外に知られてゐるのではあるまいか。

印度旅行記の各種や、反英運動の歴史、ガンヂー伝の類もずいぶん色々出版されてゐるし、古本屋の棚の隅から「コンミュニズムから見たガンヂーの運動」などといふ本も出てくる事がある。日本人の印度観察は「コンミュニズム」云々などといふガンヂー批判の本が出てゐる程に、一応は印度批判の底も衝いてゐるのだといふことを、在京印度人団体は考慮に入れる必要があらう。

我々の望むところは、日本の対英関係がかういふ状態の折であればこそ、在京印度人団体などが、機会を得たものとして、それこそ印度の実相を日本に知らせる唯一の機会として、何もかも洗ひざらひ真の印度人の心を語るべきだと思ふ。印度人が全部文化人であるかの印象を、日本人に与へることばかりが仕事ではあるまい。我々の知りたいのは、文化人としての印度人と、また非文化人としての印度人なのである。一方を掩ひ隠したところの印度人ではない。

印度や、フィリッピンの独立は我々の関心事であるが、印度人にせよ比島人にせよ、いささかの文化性によつて、もう何もかも成就せりといふ考へに陥るといふ危険も伴ふ。これらの統治者たちが、一段と高いところにあつて、何段も高い文化的策謀の眼を下の方に投げかけてゐるといふ場面も想像できるのである。



http://gaku2003.hp.infoseek.co.jp/CHIHEI/OGUMA/ESSAY/ESSAY-40.html#ANC5

青空文庫の作家別作品リスト:No.124 小熊 秀雄
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person124.html
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