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藤原新也オフィシャルサイト
http://www.fujiwarashinya.com/
彼のことを書こうとオフィシャルサイトのプロフィールを読んで、ちょっと驚いた。 「〜藤原新也物語〜」という読み物になっていて、最後に(文責・相川大介)とある。 つまり、自分で書いていない。
自伝小説「鉄輪」(1999年)や他のエッセイからの引用がメイン。 旅する作家の物語を他人に書かせ、自サイトにプロフィールとして載せている。
自伝ではなく自伝小説からの情報なので、「事実」ではなく「本人の感じた事実」なのだろうな。
藤原氏のエッセイ・ルポ・旅行記は80年代頃は、そこそこ読んでいた。
「乳の海」あたりまでかな。 その後は、あんまり読んでいない。 自伝小説を書いていたのも知らなかった。
旅館の息子だったころの思い出については、読んだことはある。
高校・大学、そしてインドに旅立つあたりのことは断片的にしか知らないのだが…
「旅立ち」http://www.fujiwarashinya.com/profile3.html
「かなり省略した自伝小説」という印象。
高校の美術部、大学で描いた絵についてはどこかのインタビューで答えていたと思うが…。
芸大入学については『そしてある日、高校時代に絵をやっていたことを思い出し、仕事のかたわら絵の研究所に通 い、東京芸大の油画科に入学する。』とある。 かなり脚色してる様に感じる。 本当に「ある日」だったのか? 高校時代から芸大を目標としていたのではないのか?
何故絵をやめて写真を撮るようになったか、旅行記を書くようになったわけ、どうやって売り込んだか、等は綺麗さっぱり省略されている。
1970年代のアサヒグラフで、メジャーデビューということになるのかな?
その当時のことを松岡正剛氏が回想している。
「たとえば」であげられている写真家の半分(以上)は広告界の人だ。
「写真界」??という括りで取り上げるには、なんだか微妙な人選だ。(そもそも「写真界」なるモノがあったのか?)
70年代初めは、ジャーナリズムとコマーシャルとルポライターとの間で写真雑誌は揺れていたような気がする。
カメラ毎日の名物編集長山岸章二がやめたのが1977年。
70年代半ばだと、広告で稼いだ写真家らが、作家性を前面に出した難解な写真(?)をカメラ雑誌に発表していたように思う。 そんな難解な写真が多かったから、写真誌は影響力を失って衰退したのかも…、という印象があるのだがなぁ。 それに、当時(今も?)写真評論家と名乗っていた人は、片手で数えられたのではないか? ちなみにカメラ毎日は1985年廃刊。
パルコを「唯一の例外」などど松岡氏は書くが、パルコの広告に抜擢される方が、写真雑誌に掲載されるよりも凄いことだった。
あのころのパルコとサントリーは、雑誌なんかより遙かにメジャーで強力なインパクトがあった。
FOCUS連載は最初は1年の契約だったらしいが、6回で打ち切り。
その間の事情は「東京漂流」に書かれているが…
金属バット両親殺害事件の家、深川通り魔殺人事件犯人護送写真が印象に残っている。
「軍司のパンツはグンゼ」というは、彼が最初に指摘したはず。その後ビートたけしが深夜放送でネタにして広がった。
「人間は犬に食われるほど自由だ」事件でFOCUSの連載は終わる。
この写真自体には、それほど私は衝撃は感じなかった。
サントリーならばこういう広告もありだろうとも思ってたし、逆にサントリーが怒ったらしいという事に、変に割り切れないモノを感じたりしていた。
「東京漂流」を読んだ後も、なんだか真相とは遠いようなモヤモヤが残ったかなぁ…
藤原氏の問題の写真そのものは、1971年の撮影らしい。
死体写真は、ベトナムの戦場写真で巷に溢れていた。 マンガ「デビルマン」の残酷描写だって1972年。 スプラッタ映画も流行っていたかな?
方丈記は高校の教科書に載っていた。
餓鬼草子や九相図のことも知っていたし、メメントモリという言葉だって知っていたから、あの写真や文章には違和感がなかった。
というか、ちょっとクサイ、というか、あざとい感じもしたなぁ。
あの写真がそれなりに受け入れられたのは、「インドだったから」という気もする。
チップ強要、ペテン、詐欺、窃盗、寺院参拝や川での水浴びに浮身をやつす人々、修行者ばかりのインドでは、そういう事もあるのだろうな、という感覚。
「インド人は犬に食われるほど自由だ」
というコピーだったら、どうなっていただろうか?
ベネトンが1994年にボスニア兵の血染めの衣類を広告にした。 この広告の方が、私には衝撃だった。
「悠久の時を生きるインド人」ではなく、ユーゴスラビアという文明人、現代の隣人をより強く感じさせる広告だった。
以下は、餓鬼草子・九相図や写真なので注意
http://www.fujiwarashinya.com/
彼のことを書こうとオフィシャルサイトのプロフィールを読んで、ちょっと驚いた。 「〜藤原新也物語〜」という読み物になっていて、最後に(文責・相川大介)とある。 つまり、自分で書いていない。
自伝小説「鉄輪」(1999年)や他のエッセイからの引用がメイン。 旅する作家の物語を他人に書かせ、自サイトにプロフィールとして載せている。
自伝ではなく自伝小説からの情報なので、「事実」ではなく「本人の感じた事実」なのだろうな。
藤原氏のエッセイ・ルポ・旅行記は80年代頃は、そこそこ読んでいた。
「乳の海」あたりまでかな。 その後は、あんまり読んでいない。 自伝小説を書いていたのも知らなかった。
旅館の息子だったころの思い出については、読んだことはある。
高校・大学、そしてインドに旅立つあたりのことは断片的にしか知らないのだが…
「旅立ち」http://www.fujiwarashinya.com/profile3.html
「かなり省略した自伝小説」という印象。
高校の美術部、大学で描いた絵についてはどこかのインタビューで答えていたと思うが…。
芸大入学については『そしてある日、高校時代に絵をやっていたことを思い出し、仕事のかたわら絵の研究所に通 い、東京芸大の油画科に入学する。』とある。 かなり脚色してる様に感じる。 本当に「ある日」だったのか? 高校時代から芸大を目標としていたのではないのか?
何故絵をやめて写真を撮るようになったか、旅行記を書くようになったわけ、どうやって売り込んだか、等は綺麗さっぱり省略されている。
1970年代のアサヒグラフで、メジャーデビューということになるのかな?
その当時のことを松岡正剛氏が回想している。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0160.html
その藤原を写真界は無視した。
藤原新也は、当時キラ星のように並び称されていた写真家、たとえば森山大道・篠山紀信・森永純・横須賀功光・荒木経惟・立木義浩・十文字美信・田村シゲルらとは同列には見られなかった。せいぜい“文章が書けるドキュメンタリーな写真作家”とみなされ、誰もその写真を論じなかった。のちにぼくが「カメラ毎日」で対談したことと、のちに石岡瑛子がパルコで「ああ原点」の写真家として起用したことが、唯一の例外だった。
藤原も写真界を無視した。
「たとえば」であげられている写真家の半分(以上)は広告界の人だ。
「写真界」??という括りで取り上げるには、なんだか微妙な人選だ。(そもそも「写真界」なるモノがあったのか?)
70年代初めは、ジャーナリズムとコマーシャルとルポライターとの間で写真雑誌は揺れていたような気がする。
カメラ毎日の名物編集長山岸章二がやめたのが1977年。
70年代半ばだと、広告で稼いだ写真家らが、作家性を前面に出した難解な写真(?)をカメラ雑誌に発表していたように思う。 そんな難解な写真が多かったから、写真誌は影響力を失って衰退したのかも…、という印象があるのだがなぁ。 それに、当時(今も?)写真評論家と名乗っていた人は、片手で数えられたのではないか? ちなみにカメラ毎日は1985年廃刊。
パルコを「唯一の例外」などど松岡氏は書くが、パルコの広告に抜擢される方が、写真雑誌に掲載されるよりも凄いことだった。
あのころのパルコとサントリーは、雑誌なんかより遙かにメジャーで強力なインパクトがあった。
FOCUS連載は最初は1年の契約だったらしいが、6回で打ち切り。
その間の事情は「東京漂流」に書かれているが…
金属バット両親殺害事件の家、深川通り魔殺人事件犯人護送写真が印象に残っている。
「軍司のパンツはグンゼ」というは、彼が最初に指摘したはず。その後ビートたけしが深夜放送でネタにして広がった。
「人間は犬に食われるほど自由だ」事件でFOCUSの連載は終わる。
この写真自体には、それほど私は衝撃は感じなかった。
サントリーならばこういう広告もありだろうとも思ってたし、逆にサントリーが怒ったらしいという事に、変に割り切れないモノを感じたりしていた。
「東京漂流」を読んだ後も、なんだか真相とは遠いようなモヤモヤが残ったかなぁ…
藤原氏の問題の写真そのものは、1971年の撮影らしい。
死体写真は、ベトナムの戦場写真で巷に溢れていた。 マンガ「デビルマン」の残酷描写だって1972年。 スプラッタ映画も流行っていたかな?
方丈記は高校の教科書に載っていた。
餓鬼草子や九相図のことも知っていたし、メメントモリという言葉だって知っていたから、あの写真や文章には違和感がなかった。
というか、ちょっとクサイ、というか、あざとい感じもしたなぁ。
あの写真がそれなりに受け入れられたのは、「インドだったから」という気もする。
チップ強要、ペテン、詐欺、窃盗、寺院参拝や川での水浴びに浮身をやつす人々、修行者ばかりのインドでは、そういう事もあるのだろうな、という感覚。
「インド人は犬に食われるほど自由だ」
というコピーだったら、どうなっていただろうか?
ベネトンが1994年にボスニア兵の血染めの衣類を広告にした。 この広告の方が、私には衝撃だった。
「悠久の時を生きるインド人」ではなく、ユーゴスラビアという文明人、現代の隣人をより強く感じさせる広告だった。
以下は、餓鬼草子・九相図や写真なので注意
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