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『はじまりの卵の物語』『満月の夜古池で』『死国』『狗神』『ラ・ヴィタ・イタリアーナ』『愛を笑い飛ばす女たち』『わたし』読了。
こんな形で坂東眞砂子を読むとは思わなかったな。

映画化された『死国』を見てから、小説も読むことになるのかな、などと漠然と思っていた。(映画は未見、栗山千明が好みじゃないせいかも)
それとも、四国巡礼とか、狗神信仰などの宗教・民俗絡みで読むことになったかなぁ。歴史物で読むことになったかも…

『死国』『狗神』は面白かった。
他の長編は、もうすこし落ち着いてから読みたいな。


『わたし』
自伝的小説
作中の思い出話が、他の小説の中の”あの”エピソードに発展したのかなぁ、と思われるところが多々あり、興味深かった。 この小説単独では、いまいち面白くは読めなかったかもしれない。(そういう意味で素人にはお勧めできない、かも)
固有名詞やニックネームが頻出するが、あくまでも小説・フィクションとして読むべきだとも思う。 かなり脚色していると思われるので「事実」と受け取るのは危険だろう。


『はじまりの卵の物語』
児童文学作家だった頃の作品。 
角川文庫巻末の『死国』の紹介の中に「直木賞作家の原点がここに!」とあるが、本当の原点は児童文学時代の作品だろう、と思った。

巻末の編集者が書いた紹介
誰も知らない町の秘密を知った結花。謎の石を手にパラレルワールドへ。現代の女の子の冒険。


パラレルワールドには、くちばしを持った人間「羽根族」、草から進化した「草人」、猫そっくりな「猫目族」、「牛足族」が登場します。 
鼻が利く「犬族」は出てこない(w  犬族を書いてみたら『狗神』に成ってしまったのではないか?

風が吹くと歌うやさしい「草人」の描写は、どこか『死国』の”神の谷”に通じてるようにも思える。
謎の石というモチーフも、ありがちとはいえ、やはり『死国』にも…


『満月の夜古池で』
児童文学という分類が有るけれど、最近の児童文学とは小学生を主人公にしたライトノベル、という感じじゃないだろうか?
まぁ、そんな感じの1冊。1997年だから、既に「ホラー作家」としての地位は確立してるなぁ。 普通に職業作家として優秀だと思う。
男の子が主人公、蛇女もちらっと登場。 動物変身譚でもあるな。

児童文学の作品は、おそらく小学生を主人公にした話が多いと思うのだが、『死国』『狗神』もは子供の頃の思い出・体験が大きな位置を占めている。
児童文学の主人公が成長して(成長しなかったりもするが)、後の伝奇小説の登場人物になったとも思える。
まぁ『狗神』は高校時代の件だったりするが…


『ラ・ヴィタ・イタリアーナ』
1997年〜1998年イタリア滞在中のエッセイ。マルコポーロを題材とした『地涯ての地』執筆のためイタリアに渡った時の現地報告。
観光ではなく、仕事や留学での長期海外生活者の視点はなかなか興味深い。
棲む場所についてとか、役所との交渉とか、いろいろイタリアならでは(?)のトラブル報告が多い。

自動車運転免許取得の苦労話も面白い。
四国島内の取材では、両親に車の運転を頼んでいたらしい。 『わたし』では両親についてほとんど触れていなくて、ちょっときつい書き方もしているが、そこは まぁ やはり「小説」としての脚色なんだろうなと思った。

理系/文系という分類はあまり意味はないと思うけれど、いちおう高校の頃は物理が得意、大学も住居学科で、理系ということになるかな。 でも機械は苦手っぽい。
他のエッセイや『わたし』によれば、高校の頃は漫画も書いていたらしい。 インテリア・建築の興味や勉強は「絵」経由という部分もあったのかな、などと思う。


『愛を笑い飛ばす女たち』
タヒチでの生活をメインとしたエッセイ集
小説の惹句に「日本人の土俗的感性を惹起する」とあるが、そういう発想が生まれたのは海外留学・旅行・滞在経験から来たものだというのがわかる。
四国→関西→イタリア→東京→タヒチという遍歴のなかで土俗的感性と欧米流の個人主義の関係を考えているようだ。

カバー裏のロングヘアーの全身写真はお気に入りらしい。『わたし』に記述有り、東京駅駅前での撮影だそうだ。 海外では切れ長の目、長い黒髪は東洋美人の証だと思う。 そんな感じの写真。(1998年〜2000年頃撮影か? 最近はおかっぱにしてるようだが)

bandou1.jkpg
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ベットがデカすぎる

名前は?

名なしだ

私は…

君の名前は知りたくない
君も俺も名前を持たない
ここでは名なしだ

変よ

君のことは何も知りたくない
どこに住み どこから来るかも
何一つ知りたくない

怖いわ

外の世界は忘れて この部屋で会うんだ
いいか

でもなぜ?

理由はこうだ
ここでは 名前は必要ない
違うか?
知ってることは すべて忘れるんだ 何もかも
知人のことや職業 どこに住んでいるかも
何もかも忘れて会う

できないわ
できる?


分からん
怖いか


来て


チャプター9 「名なし」 より

制作が1972年で、公開当時は大評判でポスターや評論は目にしていたけれど(ませたガキだ)、実際に見たのは何時だったのか?

「夜よ、さようなら」(1979)でマリア・シュナイダーが相変わらず素敵だと思った記憶があるから、この映画の日本公開時の1980年頃の名画座だったろうか? もう少し後に、両方とも名画座で、だったろうか?
それともビデオデッキを買ってから、相前後して借りたのだったか?

初見の時は、映画青年になんとなく自己投影してたようにも思う。

1972年と言えば、マーロン・ブランドはこの時48才。 
同年にゴッドファーザーに出演、その後スーパーマンでの父親役、地獄の黙示録のカーツ(注…あたりの老けた/太った姿をリアルタイムで見ていたので、こういった役柄が逆に新鮮だった。

マリア・シュナイダーのファッションが、それこそ70年代初めのELLEそのまんまで羨ましかった。

「お金も貰わずに寝るなんてバカみたい」という評をネットで読み、苦笑したな。
1972年当時の中年親父のメルヘン映画だったようにも思う。 夢のように綺麗な映像だし。

http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD12406/index.html
【関連】
地獄の黙示録でコッポラが参考にした詩(くるつサン=カーツ)
エリオット詩集より  うつろな男たち      くるつサン――死ンダヨ
http://belena.blog70.fc2.com/blog-entry-22.html
私はこの本を読んでいないので、書評というわけでもないのだが。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4121501144/ref=sr_11_1/503-1168760-6805514?ie=UTF8
荷宮和子氏がこの新書を書いたのが2005年。 私がこの本の存在を知ったのは、歌田明弘の『地球村の事件簿』http://blog.a-utada.com/chikyu/2004/06/post_1.html だったように思う。
歌田氏は「われわれの陣営」という言葉で、一定の評価を与えていました。

それなりに話題になった新書のようで、本人のラジオ出演を聴いたり、雑誌のコラム等は若干は読んでる。
AmazonやBK1の書評も読んで、まぁ「反面教師」として読めばいいのかとも思ったが…、きっと罵詈讒謗で書評を書いてしまいそうな予感もする。

Amazonで調べると、大塚英志と本を出している。こっちは読んだ記憶がある。
『クマの時代―消費社会をさまよう者の「救い」とは』 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4334060773/sr=1-12/qid=1155281083/ref=sr_1_12/503-1168760-6805514?ie=UTF8&s=books
今時の文系女子のってこんな風なのかなぁ、などと感じた記憶もあるが…新井素子のぬいぐるみの話の二番煎じのような印象もあったかなぁ…
「声に出して読めない…」を検索していて、彼女がこの本を書いてたのを見つけたとき「タイトルからして、また二番煎じかぁ」と思ったのは確かで、読む気がなくなった。

この本は、たしか連合赤軍関連とオタク論の絡みで読んだのだったか…
『 大塚英志による解説―〈癒し〉としてのクマ(永田洋子は、なぜ「かわいいもの」の夢を見るか―少女民俗学的連合赤軍論の試み』
を読むのが目的だったと思う。

それはさておき「声に出して読めないネット掲示板」について

雑誌とかでも、そこそこ話題になってはいたように思う。 待望の2ちゃんねる批判本がついに登場というニュアンスだったように記憶。
しかしなぁ、こんなレベル(書評による)の批判は著者の自己満足というか…2ちゃんねるを毛嫌いする層にはうけるだろうけれど、ただそれだけだろう。

2ちゃんねる内には、あまりに自虐的と思える自己分析のスレが、わりと定期的に立つので、それを読む方が「2ちゃねらー」分析になると思う。

現在はblogブームということで、いろんな雑誌・解説書・入門書が出ているけれども、なんちゅうか夢を売る本とアングラ情報に2極分化しているのじゃないか?
この本のような、2ちゃんねるを偏見・勘違いで罵倒するだけのネット評論が多いのは、寂しい。


話は飛ぶが…
…河上イチローの著作はあの当時としては、というよりも今でもネットに対する良い啓蒙書だと思う。
松永英明として今年blog論を新書で出版できていれば、それなりにスタンダードな論・啓蒙書・実用的なガイドとして受け入れられたのではないかと、これは本心で思ってる。
それなりに2ちゃんねる批判も入って、そういう層にも歓迎されていただろうし。(むしろ、そこを狙った方が売れるのでは?)

2004年にblog本を出したり、その後も雑誌・ムックで書いていたのは知ってる。 微妙にタイミングが悪かったのかなぁ。あまり売れなかったみたいだけど。
原題「THE HARDER THEY FALL」1956年アメリカ映画。ハンフリー・ボガードの遺作。
NHK衛星映画劇場 8月10日(木)に放映される。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD6584/index.html

映画の原作は、かつて力道山とも闘った人間山脈プリモ・カルネラがモデルと言われているし、なんちゅうか凄いタイミングだな。

リストラされたスポーツ記者が、見かけ倒しの巨人ボクサーの広報を担当し、泣かせる話もでっち上げつつタイトルマッチに挑む。
ボクシング業界の暗黒面にどっぷりつかりながら、異様に格好がいいボギー。
最後の啖呵にしびれる。

日本の現在進行形のドラマのシナリオは、これを参考にしてるのか?
関係者による日本版「殴られる男」出版までは予想できるけれど、なんだかスケールの小さな茶番になりそうな予感も。
図書館で探し出して読んでみた。

1年くらい前の雑誌、冒頭の座談会が2月なんだが、なんだかえらく時間がたったような気がする。
時期的に言えば「はてな」と「mixi」が大きな存在になりつつあった頃といえばいいのだろうか。

そんなに面白くなかったというか、執筆者達が関わっているネット圏域と私の読んでいるネットの部分の重なりが少ないせいか、興味が持ちにくい。
だらだらした長文が多く、読む気がしないのもあった。いわゆるライターさんや編集者の文章が並んでいるだけ、という散漫さに、バブル期の「ギョーカイ」臭い馴れ合いに近いモノを感じたな。

なんちゅうか、なぁ…
ウェブ日記、個人ニュースサイト、テキストサイトに続くモノとしてのblogという視点で取り上げられている感じなのだが…
私は、いわゆる日記はほとんど関心がない。 どちらかといえば、政治系の方を見ていることが多いかな。 なぜ日記が流行る・はまるのかについては、やや興味があるけれど…、という程度。 
この特集では、いわゆる「ジャーナリズム」は論じられていない。 日記サイトが多いブログ界をそのまま反映したような、自分語りの文章が多いことにウンザリする。

特集に登場したサイトのリンク集。
http://just-wanna-have-fun.seesaa.net/article/2804838.html

この中で現在も活発なのはどれくらい有るのだろうか? 確認してはいないけど、ひょっとすると半分以下じゃないのか? 雑誌上ではてなIDを晒していたが、現在プライベートモードになっている人もいるし。


上野俊哉+泉政文『接続者のしかばねの上に萌えるもの、あるいは工作車の逆襲』
という、ちょっと、なタイトルのものから引用。

ところが「はてな」と英語圏のブログ、たとえば「Slashdot」や「Indymedia」などとの違いを見ると愕然とする。とても同じツールとは思えない。あまり一般化はできないが、英語環境でのブログは「集団による思考や編集」のツールやプラットフォームとして評価され、使用されているように見える。ヘアート・ロヴィングが論じているように、ブログはウェブのもつ狭いパブリッシング(公表/公刊)を、よりネットの潜在的可能性に向けて開いていくものとして期待されている。したがって、身辺雑記や宛先のないレビューがポストされることはまれであり(それならばメーリングリストや掲示板で十分だ)、ブログの可能性はオープンで公的なフィルタリング(介入的編集)に求められる。つまり、特定の技能を持った一定数の編集者によってではなく、互いが潜在的に無数の編集者として機能しうる場としてブログは注目されている


日本でもブログ間で論争は有るのだけれど、いまひとつ活発じゃない印象がある(私のアンテナが鈍いだけかもしれないが)。
むしろ、2ちゃんねるとその「まとめサイト」が、英語圏のブログの役割を果てしているような気がするな。


どうでもいい感想としては、1975年生まれを中心とした世代がネット・ブログの中心になってきたのだなと、改めて感じた。
編集者・座談会出席者・執筆者、言及されるサイト運営者共々にこの世代が多いように見える。
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