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斎藤美奈子著
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1999年7月から2002年10月まで40数冊のベストセラーを読み継いだ書評集にちょっと加筆した本。
読者論という面もある。
『誰が「本」を殺すのか』佐野眞一vs『出版現実論』藤脇邦夫のどちらも斬っている読者論だ。

「良書が売れない」vs「売れるものが良書」、というのは結局は「知識人」vs「大衆」という構図に陥りがちだが、現実は違うのではないか? そもそも「趣味は読書」という層自体が少数民族であるという立場から「読書人=多民族説」を唱えている。

もし日本が100人の村だったら、40人は全く本を読まず、20人は読んでも月に1冊以下(略)
純粋な趣味として本に一定のお金と時間を割く人はせいぜい100人の村に4〜5人、数にして500〜600万人がいいところかと思う。


ベストセラーを支えているのは少数民族である500〜600万人の中の「善良な読者」であるらしい。

もしも彼らがいなかったら、社会はそれこそ「本を読まない大衆」と「本しか読まない知識人」に二分化されてしまうだろう。 社会を、経済を活性化させるのは、いつも新興の中間層なのだ(と、ここは力強くいっておこう)。


大ベストセラーを支えるのは「善良な読者」、普通のベストセラーは「偏食型の読者」が、そして偏食にも様々な民族の違いがあって… という感じ。

本についてあれこれ書くのは「邪悪な読者」への第一歩かもな…

「知識人」vs「大衆」という古い構図はすでに無効であると、出版業界を巡る論争を斬っているのには同意だな。

ちなみに市民ジャーナリズムを巡る論争でも、マスコミ側からの発言には古い構図がそのまま残っているように感じたりするなぁ。

それにしても斎藤美奈子−書評wikiってのがあるのには驚いた。
http://mystery.parfait.ne.jp/wiki/pukiwiki.php?%BA%D8%C6%A3%C8%FE%C6%E0%BB%D2




さて、この読者論をそのままネット論に結びつけるのは危険ではあるのだけれど…
「blogの女王」とか「アルファブロガー」というのはどれくらい読まれているのだろうか? 前者は「善良な読者」がメインだろうけれど、「アルファブロガー」は?

で、まぁ、GripBlogの戦略をこんな視点から考察していこうかなと思ってる。

ついでに書いておけばこのblogはプロフィールに有るとおり、「邪悪な読者」がメイン読者だと思ってます。
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インターネットと“世論”形成―間メディア的言説の連鎖と抗争 遠藤薫編著
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とりあえずのメモと愚痴

読みにくい本だ。 学者が学者向けに書いた論文集だが、執筆者によって視点のばらつきも感じられるかな。 
全体の学術論文臭い記述の中に、普通のおばさん然とした遠藤薫氏と西村博之氏との対談がある。

やたらと文献の引用が多くてイヤになる。 読んでいてむかついたのは第2章。

リップマンはこう言うと引用。リップマンの認識はルーマンの理解とも響きあうとまた引用。 さらにリップマンの引用がまた出てくる。引用の中にはフッサールへの言及が、そしてさらにシュッツ、パーソンズへの言及まで有る。

教授が本をたくさん読んでおられるのは、わかりました。 ついていくのに疲れますが。

図表がたくさんあるが、妥当なんだろうか? かなり疑問が有るのだけれどなぁ。 

2004年に執筆されたことも影響してるのかな。 現在の目で見ると、情報の選択のある種の偏りをちょっと感じる。 ネット事件のその後の展開を読み違えているのではないかという部分も有るようにも…

ネットの出来事を後追いで論理付け、または過去の理論で説明しようとして、やたらと引用やら参考文献が多くなっているのではないか。
とにかくもモデル化しようと、やたらと図表はあるが、どこか外してる感じもある。

この本を精読して紹介とか批判するのは、時間の無駄という気がしてきている。

まぁ、補助線として遠山教授のサイトを覗きながら読んでる最中だが。
「バックラッシュ!」関連のバトルを紹介しといてこんなことを書くのも、なんなんだけど、このバトルに関しては通りすがりの野次馬という感じ。 今ひとつ、興味を持てない。
小谷野敦さんには、いまいち興味はないし。(学者としては、まぁ優秀なんだろうが)

「バックラッシュ!」という本を買うかといえば、おそらく買わないだろう。
表紙に出てる執筆者だと、いまさらな上野千鶴子・嫌いな宮台真司・社会を論じると微妙な小谷真理というあたりで引っ掛かる。
公式サイトも苦手だ。http://d.hatena.ne.jp/Backlash/
出版社社長のメッセージが出てたけれど

オビのリードで盛り上がり、そのまま踊ってしまうか。本文をきっちり読んで、オビのリードは半分ネタなんだと気づくか。分厚い本なので、前者になってしまう気持ちはわかります。ですが、そこをなんとか踏みとどまっていただかないと、下手に「男女平等」を引き合いに出して『バックラッシュ!』を批評してしまった場合に、「ぜんぶ読んでいない」ということがわかってしまうわけでして……。
『バックラッシュ!』のオビ文と本文の関係は、そんなひねくれた関係となっておりますので、みなさんくれぐれもご注意くださいませ。(笑)


おそらく、買ったり借りたりしても全部は読まない(読めない)だろうと思う。
この本で、たぶん一番気合いを入れて書いているだろう一般的には無名な執筆者たちを、何故前面に出さないのだろうか? 直球勝負でいいじゃないか、とも思うが。

たしか90年代初めの本で、出た当初に以下の本は読んでいる。
『バックラッシュ―逆襲される女たち』 (単行本) スーザン ファルーディ
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今となっては、憶えているのは映画の分析のところくらい。80年代の映画の「悪女」、メジャーリーグ2とかクレーマー・クレイマーが論じられてたのだっけか…
当時の米国の政治政策のバックラッシュの部分と、現在の日本を比べると興味深いかも、とも思ったりもするのだけれど…
どうも『バックラッシュ!』はそういう本では無さそうだしなぁ。 同じような書名だが、なんだかなぁ…




ピンクフロイドのスクリーンセーバーを前のパソコンに一時期いれていた。
彼らの音楽を使った映画『夜よ、こんにちは│ Buongiono, Notte』マルコ・ベロッキオ監督はそのうち見たいと思っている。
イタリアの赤い旅団によるアルド・モロ誘拐殺害事件をモチーフにした映画です。音楽がらみで知った映画じゃなくて、極左関係に興味があって、その関係で。
事件をちょっと調べたら、モロ氏の方に魅力を感じた。 かなりしたたかで、老練な政治家だったようだ。 


ピンクフロイドよりもキングクリムゾンが好きだ。
前のエントリーで古いライブ音源云々というのは、このバンドのことも含む。
ジャズ・クラシックを聴くようになったきっかけでもあったな。
公園でサックスの練習するというのは、ロリンズの伝説をなぞっているのだろうか、などど何でも聞いている今日この頃なのだが

RCサクセションはスタジオ録音よりライブの方がいい。CDよりDVD、というか実際にライブに行く方がいい。
「コブラの悩み」が好きだな。  牛乳でも飲むか。
初期のタイマーズなんかも面白がって聞いてた。

ところで、いろんなアーティストの古いライブ録音の音源がいろいろCDになってたりするが、やはりブートのままの方がよかったと思うのもあるなぁ。
ライブ完全再現という企画も、まぁファンとしては嬉しかったりするが、公式記録としては微妙な感じというのも、ちょっとはある。

ぢつは、笠原弘子という歌手というか声優の歌が好きです。
初期はCDを2枚出したら、2枚組ライブ盤を出すというパターンが続いてた。
ライブ盤は間奏やMCまで完全収録なんだけれど、声優オタの歓声まで再現されてるので、そこは微妙ではある。
中期?というか「TAKE THE "K"TRAIN 〜A KASAHARA BULITZ LIVE〜」は、そこあたりを無くした普通のライブ盤なんで、しばらく愛聴盤だった。
スタジオ録音だったら「Saga」が好き。 佐賀じゃなくて…、欧州旅行スケッチというテーマ、ラブソング無し(厳密に言えば有るけど)のアルバムです。


で〜、むりやり「ことのは問題」につなげると、インタビュー完全再現を要求する層は確かにいるけれども、ちゃんと編集したものも読みたいぞ、と
なぜ文字での完全再現にこだわるのだろうか? 普通にテープ起こししただけじゃ読みにくくてしょうがない。
昔の少女文化は「アンネの日記」と「赤毛のアン」抜きには語れないように思う。
鍵付きの秘密の日記を書き、小道や樹木に自分だけの名前をつけたりとか…

だけど「アンネの日記」はそもそもが公開を前提にしてかかれた日記だったりする。
亡命オランダ政府が、戦中の庶民のルポを募集しているというのをラジオで聞いて、そのために書かれたものです。

だから、まず当日に「日記」として書き(Aテキスト)、それを後日清書(Bテキスト)しています。 戦後になって、父親があらためて編集し(Cテキスト)出版されたのが、最初の「アンネの日記」です。*注
最初は「隠れ家」という書名で、そのほかいろんな言語・書名出だされていて、たしか「ある少女の日記」というのもあったはず。まぁ「名無しさんの手記」という感じだったのかも。

内容のほとんどが「手紙」という形式で書かれているので、「日記」というのには若干の問題があるかもしれない。

最初の翻訳は父親が編集したものを元にしているので、冒頭はすべて「キティーへ」となっている。
現在の「完全版」では、さまざまな宛先、呼びかけ方が再現されています。
最初期には「あなた」とだけ、後に「親愛なるキティーへ」「だれよりもたいせつなキティーへ」「わたしのたいせつなキティーへ」「だれよりも親愛なるキティーへ」など。

「研究版」というのもある。 筆跡鑑定、三種類の「日記」テキストの徹底比較とか、いろいろ興味深い。
たとえば「キティー」宛ではない日記も存在します。 「完全版」はそこあたりを編集して、最初に書かれたAテキストを生かした文体を主体にしているんだなぁ、ということがわかったりする。 日々の細々としたディティール・メモなんかはBテキストでは省かれたりしてる。

また父親が編集した際に、なにを削除したのかもわかる。 性のこと、同居人たちへの辛辣な批判などが中心だけど。 
あまりに辛辣なんで、父親の死後に新たに出てきた部分もあったりする。
口喧嘩とか、同居人・家族を批判した部分は、最初の版だといくぶん和らげられたふうに編集されているのだけど、完全版だと「もう一言多い」という感じかな。


で、まぁ〜無理矢理なまとめにはいると、blogという公開日記はアンネの日記の伝統に繋がってるのかもしれないな、などと思ったりする。



*そこあたりの成立事情とか、もろもろでいろんな論争がいまだに続く。
 こことか http://ja.wikipedia.org/wiki/ノート:アンネの日記
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