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「黄泉の犬」やweb日記についての疑問・質問について、藤原氏が見解を公表しています。

私のことや、田口ランディ氏のことは余計な事かもしれないけれど、とりあえず経過を記録。 


『日常生活を愛する人は?』-某弁護士日記 (滝本太郎弁護士のblg)に書評がエントリーされる。

2006/11/28 「備忘録 麻原彰晃の誕生」
http://sky.ap.teacup.com/takitaro/332.html
2006/11/29 「備忘録 黄泉の犬」
http://sky.ap.teacup.com/takitaro/333.html

藤原新也氏のサイトを見に行った。 関連するエントリー

Shinya talk
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20060831
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20061027
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20061114
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20061119(後に削除される)
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20061130

これらを読んで以下のエントリーを書いた

最近のオウム研究本の事実関係論争
http://londonbridge.blog.shinobi.jp/Entry/236/

オウム擁護のレトリック
http://londonbridge.blog.shinobi.jp/Entry/237/


田口ランディ氏の書評を読む

黄泉の犬 藤原新也
http://runday.exblog.jp/4953124/
「衝撃的な素晴らしい本だった。」


それを踏まえて、こう書いた。

【書評】麻原彰晃の誕生 / 高山 文彦
http://londonbridge.blog.shinobi.jp/Entry/275/
「田口ランディはさらに『黄泉の犬』での水俣病への視点を絶賛している。」


そうしたら田口氏からのご返事かしらん?

わからないことは、わからない。
http://runday.exblog.jp/5227501/
以前に、藤原新也さんの「黄泉の犬」について書いたが、それに対してある方が「田口ランディは、水俣病と麻原彰晃を結びつける視点を絶賛している」

と、指摘している。そのことにうんざしているらしいが、これは間違いだ。
この点に関して、絶賛などしていない。
でも、そのような視点をもつことの意味も考えていいと、思っている。

先日も、藤原さんとお会いしたときに私が言ったのは、
「麻原彰晃と水俣病を結びつけると、あまりにもうまく噛み合いすぎて気持ちが悪い。なにかひっかかるが、なにがひっかかるのか自分でもまだよくわからない。このことはもっと考えてみる必要があると思っています」
 ということだった。
 
 たとえばこの方の、「絶賛」という言葉の選び方に、なにかとても偏見を感じる。
 だから、そうではありません、と、はっきりと言っておく。


「ある方」というのは誰なのかなぁ、と思いつつ経過をまとめる。


田口ランディ氏はココを読んでいるのかな?
http://londonbridge.blog.shinobi.jp/Entry/284/
(この後、blogの引っ越しをしたため、リンク修正を兼ねて、このエントリーを書いている)


滝本太郎弁護士が、「黄金の犬」やネットの日記に関して藤原新也氏に質問メールを送る。

2007/1/2「藤原新也さんに」
http://sky.ap.teacup.com/takitaro/351.html


1月前半は藤原新也氏について、あれこれ書いていた。
カテゴリー「藤原新也」
http://londonbridge.blog.shinobi.jp/Category/12/

2月25日、なんとなく確認のため藤原氏のサイトを巡回。 日記が密かに削除されてるのを発見。 滝本弁護士のblogにコメントしたりする。


藤原新也がオウムに関して発言した日記を密かに削除
http://londonbridge.blog.shinobi.jp/Entry/337/


「藤原新也さんの妄言」
http://sky.ap.teacup.com/takitaro/408.html


森達也が早川被告の手紙を月刊プレイボーイ5月号で公開。
「黄泉の犬」を読んだ感想や、水俣病について少々言及あり。


「月刊プレイボーイ-5月号」
http://sky.ap.teacup.com/takitaro/414.html


「A3」の早川紀代秀からの手紙
http://londonbridge.blog.shinobi.jp/Entry/346/


藤原氏が、日記削除についての読者質問メール応答を公開

Shinya talk 4月23日「ネット上の情報の一人歩きほど怖いものはない」
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20070423

2007/4/26「お詫びと、まだそのままにしておきます」
http://sky.ap.teacup.com/takitaro/427.html


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月刊プレイボーイ5月号連載 森達也「A3」に早川紀代秀の手紙が載っています。

森氏の要約

 最新の「A3」で話題にしておられる二冊の本のうち、『黄泉の犬』は知人が貸してくれましたので私も読みました。言われてみれば、水俣病やその関連について、もっと早く気づいてもよかったはずなのですが、教団にいるときはもちろん、逮捕されてからも、まったく思いもよらないことでした。
 もちろん本人からそのようなことを聞かされたこともありません。 水俣病のこともそうですが、お兄さんを教祖とすることを考えていた時期もあったと知って、これも驚きでした。
 87年のエアータイトサマディのときも、ご両親は来られましたがお兄さんは来られませんでしたし、お兄さんのことはまったく話題にされたことがありませんでしたから。
 この他、私の個人的なことですが、私の名前が二ヵ所出てくるのですが、そのどちらも不本意なもので、その点は残念に思いました。いずれも著者の責任ではないのですけれどね。
ひとつは50ページの「早川ノート」というところです。 これは「岐部ノート」の誤りです。 警察が誤ってマスコミに流したのが原因のようですが、警察もその後、訂正をしてくれません。
もうひとつは、75ページのお兄さんの話で、「早川という男が教団に入ってきて智津夫の態度が急激に変わった」というところ。 そんなことはありません。 私にはそこまでの影響力はありません。


水俣病の話がとても衝撃的でした。
「やっぱりそんなことがあったんだなあ」と納得する面もあります。……変に思われるかもしれませんが、無性に胸が痛みます。……哀しいですね。
一度、松本氏と弟子十数人と共に、松本氏の実家に行ったことがあるのですが、そのときにみんなの食事用にハマグリが用意されていたんです。 バケツ半分くらいあったように思います。
それを知った彼は、ハマグリだけは料理させずに、そのまま(生きたまま)貰い受け、帰りの道すがらに、近くの海にばら撒きました(実際にばら撒いたのは私たち弟子ですが)。
そのときは、「生殺をさせないためにそうしたのだろう」と思っていました。  しかし(「A3」にも毎日寿司を食べに行っていた船橋時代のエピソードが載っていましたが)寿司を食べに行くと、彼は目の前で生殺させることになる赤貝や帆立貝などの貝類も注文することがありました。
 ……そんなことが、走馬燈のように次々と思い浮かびました。




今回の連載は早川紀代秀本人のことや、「早川ノート」についての考察でした。 
半分以上が他の本からの引用。 (最近の連載は、すっとこんな感じだ)


私にとってオウムとは何だったのか  
作者: 早川紀代秀, 川村邦光
出版社/メーカー: ポプラ社
発売日: 2005/03
メディア: 単行本


オウム帝国の正体 
作者: 一橋文哉
出版社/メーカー: 新潮社
発売日: 2000/07
メディア: 単行本


「宝島30」 1995年12月号 1996年1月号
スクープ!早川ノート原文入手!  オウム「11月戦争」の恐怖(前編)
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/aum2.htm 
早川ノートと理念なき「内乱」◆ オウム「11月戦争」の恐怖(後編)
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/aum3.htm
黄泉の犬

黄泉の犬







この本の中の記述についての読者からメールでの質問と、その返事が掲載されていた2006年11月19日の日記が、なんの説明もなく削除されていました。



詳細な反論が滝本太郎弁護士のblogでなされており、直接メールも送られています。


それが削除の理由なのかな?


2006/11/29 「備忘録 黄泉の犬」  http://sky.ap.teacup.com/takitaro/333.html


2006/12/27 「再び「黄泉の犬」について。」 http://sky.ap.teacup.com/takitaro/347.html


2006/12/27 「「黄泉の犬について-3」」 http://sky.ap.teacup.com/takitaro/348.html


2007/1/2 「藤原新也さんに」 http://sky.ap.teacup.com/takitaro/351.html





この件は後で、もうすこし詳細に書くつもりだが、いつになることやら…


倫敦橋の隠れ里:カテゴリー「藤原新也」 http://londonbridge.blog.shinobi.jp/Category/12/


ヘルマン・ヘッセというと、日本では初期の小説である「車輪の下」が、何故か一番人気だ。
受験戦争・学校への反抗の話が出ると、必ず誰かが言及しているような印象がある。

その他にも、ヘッセの初期の小説は少女マンガというか24年組のギムナジウムモノの元ネタ(?)となったりもしている。 アニメ「少女革命ウテナ」(1997年)にも「デミアン」からの一節が引用されてたりとか、根強い人気がある。

ヘッセの作風は、第一次大戦後、「デミアン」以降からかなり変わっていく。
雑に言えば現代文明批判が前面に出て、学園小説では無くなってきたとでも言うか…(「デミアン」は、まだ学園モノではあるけれど)…東洋への憧れとか、ユング心理学の影響が強くなってくる。

1960年代のアメリカの若者にも、ヘッセは大流行。 日本と違って、「デミアン」以降の後期の作品が人気だった。
小説「荒野の狼」をそのままバンド名にしちゃうグループが出て、大ヒットを飛ばしたりもする。

Born to be Wild The Steppenwolf
http://www.youtube.com/watch?v=Od93fFqGEok
エド・サリバンショーに出たときの映像。Views数が一番多いようなので。

「荒野の狼」のあらすじは、ぶっちゃけて言えば、中年男がGALに会うという話。 (端折りすぎ)


さて藤原新也は、2000年に浜崎あゆみと仕事をしている。 彼女の詞と藤原の写真とのコラボレート。
今年には、また別の若手女性シンガーソングライターとの仕事を発表するようだ。
何故そういう仕事をするかが謎だったが、藤原新也が自身を密かに「荒野の狼」と自認しているとするならば、すんなり理解できそうな気がする。

そうだとすると、分かり易すぎ、古典的過ぎるような気もするけれども。

【参考】

藤原新也を熱く語る松岡正剛
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0160.html

ヘッセは、松岡正剛も田口ランディも大好きみたい
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0479.html

田口ランディは藤原新也を崇拝(?)してるみたいだし
http://runday.exblog.jp/4953124/
http://runday.exblog.jp/4993212/
http://runday.exblog.jp/5181412/

浜崎あゆみ - goo 音楽
浜崎あゆみ - goo 音楽

浜崎あゆみの作詞法のガイドライン part4だよね
http://ex13.2ch.net/test/read.cgi/gline/1147361146/


「荒野の狼」のなかでのヘルミーネの言葉 (ちょっと長い)
鉄輪へ兄姉は行かなかったのだろうか? 既に嫁に出たか、独立してたのかな?

鉄輪では、収入が不安定だったようだが…
いきなり油絵を始めるというのは、かなり大胆だと思う。 絵の具や筆など道具を揃えるのも、けっこう金がかかる。

高校生の時のエピソードでは、2度ほど大人から「ぼく」呼ばわりされている。
町内風呂に入浴中、女子高生が彼の存在を無視して湯船に入ってきたりする。
アルバイト先での扱われ方も、子供扱いで、ひ弱っぽい。
小中学生に間違われるような少年だったのだろうか?

油絵の技法を古本で研究。 ギターも教則本で独習。
学園ストの件など、大人に習うのが不得手なのかな。 芸大も、結局飛び出すことになったし。

上京後は一人暮らしなのかな?
兄姉のところに転がり込んだりしなかったのだろうか?

兄は旅行会社社員だったらしい。 海外旅行には、兄のアドバイスも有ったのだろうか?

当時の美大事情はどうだったか? 昔から芸大の競争率は高かったはずだが…
70年代だと頂点に東京芸大、そして武蔵美・多摩美があって、専門学校だが桑沢、てな感じだったかな。

後年、芸大出身というのは、やはりある種のブランドにはなったと思う。 坂本龍一が「教授」と呼ばれるようなものだ。

インドで最初に撮ろうとしたのは、太陽に向かって1495メートル歩いた足跡の記録。 現地役人の証明書を付けて画廊に売り込もうとしていた。

http://orz.sankinkoutai.com/fuziwara_zasi_asahi.htm
『アサヒグラフ』に寄稿した経緯は、海外旅行の資金がほしく、出発前に『アサヒグラフ』に金を貰いに行った。 
その時、編集長は藤原新也の旅に対する思いよりも、そのチンピラぶりに感心し、お金とフィルムをあげたらしい。

あの当時、カラーで撮りまくるのは金がかかる。 

パルコ広告のアートディレクターだった石岡瑛子は、芸大の先輩。
当時の写真雑誌編集部に芸大出、というか現代美術に詳しい人はいただろうか? アサヒグラフだって、芸術のための雑誌ではない。
石岡瑛子に見いだされた、というのは有る意味必然だったかも。
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