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1944年
3月4日
北九州市門司に旅館の息子として生まれる
父 新太郎は明治24年(1890)生まれ 12歳上の姉 2歳上兄.4人兄弟の次男

1959年
4月 高校入学

1960年
旅館が企画整理のため取り壊される。 町はずれで新たに営業。
7月 映画「黒いオルフェ」日本公開 ギターを弾き始める。

旅館破産 一家は鉄輪の巨大(?)団地に移り住む (みぞれ降る冬のことらしい)

1961年
(この年か?)冬の鶴見岳に樹氷を見に登る。 年明けから油絵を描き始める。

6月末「学生運動」 授業ボイコット(スト)を先導、最後は一人だけで活動。
夏休み中に担任が転任させられる。

1962年
高校卒業 上京
父親から中古ギターを送られる。 
東京でギター修行をするつもりだった

30種に及ぶ仕事を転々としながら、東京を漂流する
絵の研究所に通う

1968年?
東京芸大油画科に入学

1969年
旅に出る ヨーロッパ・中近東・インド辺り

1970年
『インド発見100日旅行』を『アサヒグラフ』に連載
インド・バングラディッシュに滞在し、『続・インド放浪』も連載

1973年
76年までインド・ラダック地方に滞在
『インド行脚』『天寿国遍行』を『アサヒグラフ』に連載

1976年
日本写真協会新人賞受賞
韓国・インド・モロッコ・ケニア・台湾・香港 滞在
『逍遥游記』を『アサヒグラフ』に連載
渋谷パルコにて写真展『七彩夢幻』

1977年
パルコの広告「ああ原点」

1978年
奄美諸島・台湾・香港 滞在
『ゆめつづれ』の撮影のために、アメリカ滞在
『逍遥游記』(朝日新聞社)で第3回木村伊兵衛賞受賞。
ニコンサロンにて写真展『逍遥游記』

1979年
写真展『ゆめつれづれ』開催
『三島由紀夫・近代能楽集』の舞台美術を担当

母親の死を契機に四国遍順
『四国遍土』を『アサヒカメラ』に連載

1980年
『全東洋街道』を『月刊 PLAYBOY』に連載

1981年
『FOCUS』に『東京漂流』を連載
金属バットの家、深川通り魔殺人事件犯人護送の写真、秋川渓谷のバスガールの死体遺棄写真、取材対象に群がるカメラマンたち等
第6回で突然の打ち切り
「ヒト食えば、鐘が鳴るなり法隆寺」……カントリー・オールド

1982年
『全東洋街道』で毎日芸術賞受賞。
ドイツ・ハンブルグ美術館にて写真展と講演
板橋美術館での『20世紀美術館』に参加

1983年
『東京漂流』
大宅壮一賞・日本ノンフィクション大賞を受けるが辞退する

『メメントモリ』
アメリカ・メキシコ滞在

1986年
『乳の海』

1987年
韓国滞在
『丸亀日記』を朝日新聞日曜版に連載

1988年
『ノア』のドローイング展を銀座みゆき座にて開催
7ヶ月かけアメリカを歩く

1989年
『藤原新也のアメリカ』を『DAYS JAPAN』に連載
『僕のいた場所』を『CREA』に連載

1990年
パルコギャラリーにて写真展『アメリカ』を開催

1991年
北九州市門司港滞在

1992年
沖縄離島
『少年の海』写真小説

1993年
パルコギャラリーにて写真展『南島街道』を開催
沖縄・バリ島・伊勢

1994年
NHKテレビ『藤原新也の旅・風の笛』『月の雫』放映

1995年
『世紀末航海禄』を『週間プレイボーイ』に連載
バリ島

1998年
初の長編小説『ディングルの入江』 アイルランドが舞台

1999年
バリ島・キューバ
北九州市門司港にて写真展『未紀の花・千穂の旅』『極楽蝶の交尾』を開催

2000年
浜崎あゆみとのコラボレーション
『鉄輪』自伝小説と写真

2001年
アメリカ軍のアフガニスタン進行にともない、旅に出るつもりが車に轢かれる
オフィシャルサイト開設 日記を公開

2003年
兄が他界。四国を旅する
『なにも願わない手を合わせる』


2006年
『渋谷』『黄泉の犬』




関連すると思われる事など


1961年2月『何でも見てやろう』小田実/河出書房
1963年7月『モダンジャズ鑑賞』相倉久人/荒地出版社

1961年 吉田ルイ子 ハーレムに住み着いて写真を撮り始める
1968年 ハーレムの子供を撮った写真で公共広告賞を受賞。
1972年 写真展「ハーレム Black is beautiful」 「ハーレムの熱い日々」


1960年代の写真の動向について

戦後日本写真史第5回  http://park7.wakwak.com/~ueno/arch/99/nk99susengo169.html

1960年代の風俗について

電脳風月堂  http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/index.html



『美術手帖』の特集や記事のタイトル (現在は『BT』と改名)

1967年
5月号
「特別講座 ハプニングとは何か?」「アトリエ訪問:篠原有司男」

9月号
「東京=模型千円札事件」「ニューヨーク=トップレスチェロ演奏事件」「ロンドン=猥せつと内容」

1968年
3月号
「変貌するオブジェ 物体思考の変遷」

5月号
「混迷のなかの造形教育」「特別講座:LSDー芸術ー創造性《サイケデリック》とはなにか」

6月号
「アメリカの危機と新しい芸術」「特別講座:LSDー芸術ー創造性2」

8月号
「ハプニング・体験としての芸術」「ハプニングの歴史と世界のハプナーたち」

9月号
「根源からあふれ出るもの」「これがエクスタシー」

10月号
「現代美術とその理論」「アートからノン・アートへ」「芸術的デザインとデザイン的芸術」

1969年
1月号
「芸術の変貌/ポップ・アートとその後の芸術はどう変わったか」「新しいものの終わり/現代芸術の状況」

2月号
「現代芸術とテクノロジー」「手の失権/シンボルとしての機械と手工的思考」「機械時代の終わりに立って」

3月号
「芸術家の時代は終わった?」「けちんぼうな芸術家たち/ミニマル・アートについて」「痛みの感覚があるかぎり手は語る」「大衆の逆襲」

4月号
「インターメディアとはなにか」「芸術をのりこえるもの」「ひろげられた空間への回路ークロス・トーク/インターメディア」「新しいテクノロジーと芸術家」

5月号
「エロスのニューイメージ」「知覚とメディアの対話」「光ーその誘惑」「アーク・オーロラの分光に起立して」
「口絵:荒川周作〈未知なるものの図表〉」「異色作家紹介:ナム・ジュン・パイク/性と音楽とコンピューター・アート/白南準の芸術」

6月号
「新しい自然=エレメンタリズム〈エア・アート〉」「空気芸術空論」「オットー・ピーネ/空間の拡張」「クリスト/欲望の弁証法」「磯辺久行/空に浮く城」

7月号
「新しい自然=エレメンタリズム〈アースワーク〉」「観念のエロティシズムー物質の消滅」「大地の下は埋められた美術館 土をめぐる芸術家のことば」

8月号
「美術大学の造反―断末魔の近代」

9月号
「これはパイプではない」(フーコー)「イアニス・クセナキス―数学的論理学の思想」「バリケードの中の芸術―断末魔の近代―」「創造的媒体としてのTV―ニューヨーク通信―」

10月号
「現代彫刻の展開」「実像と全体性を求めて」「視覚による視覚の批判 アンチ・フォームの理論」「アンチ・イリュージョン/手続きと素材」

参考:美術手帖バックナンバー
http://www.worksonpaper.jp/publications/magazine/bt/top.html
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2005年9月のShinya talkを読んでいる。 選挙まっただ中である。
この中の1枚の写真が、ちょっとネットで話題になっていたようだ。
電車内で座り込む女子高生達


9月19日に藤原新也氏は「乙女年齢の子が自身をゴミ化するような状況」と言葉は辛辣に書くが、彼女たちをそれほど非難はしていない。
おそらく「渋谷」という本は、この写真の少女達の内面に迫ろうとして書かれた本なのだろう。

ネットの感想をちょっと追いかけた。

四畳半寝太郎:まなざしと美醜〜「醜い」女子高生に思う〜
http://slumber365.blog2.fc2.com/blog-entry-151.html
カトラー:きみは電車女を見たか?
http://katoler.cocolog-nifty.com/marketing/2005/10/post_53db.html
木村剛:「電車女」に耐えられない時代遅れ(?)のオジンたち
http://kimuratakeshi.cocolog-nifty.com/blog/2005/11/post_7e19.html
貞子ちゃんの連れ連れ日記:『電車男』は昔からいました♪(男性学事始)
http://diary.jp.aol.com/uvsmfn2xc/275.html 

カトラー氏の語るd電車女を始めとして 『若い女の子現象』になると 男の人のブロガーは すこぶる切れが悪くなるのですけど なぜ。

ただの時間節約とただの反抗期なんじゃない????



昔の旧制高校的「バンカラ」の現代的少女的噴出という面があるのかな、などと思ったりもするが、よくわからないな。


ぜんぜん関係ない話題でのエントリーなのだが、私が藤原新也氏に感じる鬱陶しさってのに近いような気がしたので、ちょいと引用。

仲俣暁生:ピテカントロプスは「鹿鳴館」だった!?〜宮沢章夫の東大「80年代」講義
http://d.hatena.ne.jp/solar/20060720/p1

興味深いのは、大塚英志が彼の本のなかで、自分に都合よく位置づけた観のある「岡崎京子」(的なもの)を、宮沢章夫もまた、もうひとつの「80年代」の側に置こうとしていることだ。そもそも「おたく」なる差別語が、中森明夫が「岡崎京子」的なるものを自陣営の側に引き込むために編み出されたものだった、と私は考える。大塚、中森、宮沢といったひとたちが、自分の言葉ではなく、自分より若い世代の「オンナノコ」の感性に託すことで表現したかったこととは、いったい何だったんだろう。岡崎京子と同学年の私には、それがよくわからないし、わからないがゆえに、彼らの言説が鬱陶しい。




それはさておき、2005年9月のShinya talk は選挙に関する感想がメイン。
女刺客を「自民コンパニオン」、「マンバみたいな扇千景」と書き、山古志村村長・長島忠美を「”恥ずかしい”を通り越して人間のクズである。」とまで書いている。
酔っぱらい還暦オヤジの戯言レベルになっているなぁ。



ちなみに、カトラー氏が藤原新也氏の写真を掲載したら、本人から(?)クレームが来たらしいが… 此処ではどうなるだろうかな?
鴨長明は琵琶の名手でもあった。
そんなことを踏まえて、オフィシャルサイトのプロフィールを読んでみる。

 自伝小説『鉄輪』に描かれるように、そもそも藤原新也が上京したのはラテンギターを習得するためだった。彼は東京に出るとすぐに郷里で手にしていたギターの教則本の著者、武蔵小山にあった溝渕浩五郎の門を叩くのだが、3ヶ月で退所している。自由奔放なラテンギターをやるための、厳格なクラシックギターの堅苦しいレッスンが肌に合わなかったのだ。彼はギターを辞め、それ以降30種に及ぶ仕事を転々としながら、ただ東京を漂流する日々を送った。

http://www.fujiwarashinya.com/profile3.html


この「事実」は始めて知った。 80年代の本に書いていただろうか?
記憶にない。

ふ〜ん、という醒めた感想になるのは、「黄泉の犬」での芸大の先生に対する記述と、あまりに温度差があるからでもある。
「ネクタイを締めて芸術などできるか」などといってた芸大生が、その直前にクラシックギター教則本の先生にレッスンを希望かぁ…
60年代後半のギターっていったら、それこそ皆適当に弾きまくっていたはず。 フォークゲリラとか云っていた時代だ。 
自由奔放なラテンギターかぁ…

謎だ

【追記】
●本当にラテンギターを弾きたいと思っていた

●ビートルズに影響されたと書くのが癪だった(ビートルズのインド指向が許せない)

●アメリカの音楽シーンに影響され(略 (ヒッピーの(略

答えは自伝小説『鉄輪』の中にあるのだろうか?
黄泉の犬 p288
芸大の哲学授業でのエピソードより

先生は俺のレポートを読んで”サルトルは読みましたか”って言った。俺は”それ、サルの研究者ですか”っていった。先生は笑いながら、”あれを読めばすこしはヒントはあるかもしれない”って言った。読んだけどぜんぜんピンとこなかったな。だいたい思想とか文学やる人、世間知らずの真面目なお坊ちゃんが多いじゃない。本当は一番世間知らなきゃいけないひとが。そんなの読んでも頭ではわかっても身にならないのよ。


えーと、サルトルがお坊ちゃんというのだけ合ってるかな w

こういった哲学・思想・文学のイメージの原点は、フレッド・アステア、オードリー・ヘプバーン主演「パリの恋人」じゃないのか?

本屋でバイトする哲学好きのあか抜けない少女が、フレッド・アステア演じるファッション誌のカメラマンに発見されてパリに行き、一流モデルになる、というお話です。
ヘプバーン演じる少女は「共感主義(empathycalism)を唱える哲学教授フロストル」の信奉者で、パリを舞台に恋のさや当てするミュージカル。
黒のタートルネック(実存主義ファッション)で歌い、踊るヘプバーンが素敵 [emoji:e-265]ハート
哲学教授のモデルはサルトル。
写真家のモデルがアヴェドンだったりする。
当然カメラマンがヘプバーンのハートをつかむ w

哲学者をバカにし、写真家に転身した藤原新也の原点は、まさかこれだったり…という妄想も楽しいが…
連想ゲームじゃないのだがなぁ…、正月TV特番の見過ぎで演芸脳になってしまったかな w

【追記】
ヘプバーンの魅力に気づいたカメラマンが、いつしか彼女にメロメロになっていく、というストーリーだったかも
「ゆめつづれ」(1979年 パルコ出版)という写真集は、えらく豪華で手間のかかった作り(バブルだったのだなぁ)だった。、




森へ ― この奈落の闇の中に怪しくくりひろげられる極彩のファンタジー
糸、つづれ、女、漆黒の淵を求めて地の果 てに舞い狂う。
北米の巨大な原生林に、いま桃山の風が吹きぬ ける。


写真集の構想から完成までの苦闘を書いた文章を何処かで読んだ。 クライマックスは「大自然とモデルの共鳴が、なんたら…奇跡の瞬間…」だったか。
あまりの自画自賛と、仕掛けの派手さと写真のつまらなさに、かなりしらけた。

パルコ劇場の芝居で、舞台美術にも挑戦してたな。 まぁ芸大油絵科出身だから、そんなに突飛ではないのかもしれないが。
藤原新也というと、パルコの広告とか、バブルの頃の思い出と重なるなぁ。


藤原新也を読まなくなったのはいつ頃だったか?
ググってみて思い出した。 1988年頃からだ。

http://d.hatena.ne.jp/Maybe-na/20050313/1110722598
[ニセ社会学]現実と虚構の混同

その後、1988年には目黒で中学生が自分の母親とおばあさんを殺す事件がありました。そして、写真家の藤原新也氏はこの事件に対し、「これはゲームの『ドラゴンクエスト?』のアイテムを集めて、ある手順に従って敵を倒していくのにそっくりだ」と指摘しました。思いもよらないところからテレビゲームが現実に影響を及ぼすという全く新しい指摘が出てきたことに、その当時の人はみんな驚きました。まあ、よっぽどトンデモでもない限り、新しい見解というのは大概もてはやされるものでおっとなんでもありません。

ついでに、この方は“写真家”つまり芸術家の方なのですから、犯罪についての見解は述べるべきではない、と私は考えていたりします。芸術家がその芸術に没頭するあまり社会常識からぶっ飛ぶことはよくあることで、あくまで一般人とは違う、ある種の非常識さを持っているからこそ芸術家は素晴らしいとも言えると思うのです。ですから、犯罪とかそういうことに口を出すのが正しいとは思えなかったりするのですが。まあ、芸術家が言ったことだからなおさら珍しく、注目を浴びたとも考えられますが。…途中で「珍しい」から「正しい」にすりかわった気もしますけど。まあなんにせよ、当時に限って言えば、藤原氏の指摘は非常に現実的だったわけです。




あと、どの本だったかなぁ?
どこかの田舎に滞在していた話。 
『毎朝松田聖子の歌の町内放送(?)で起こされる。 その歌声を年代順に聞いていくと、ある時期から「母性」が感じられる。 ちょうどその時松田聖子が病気入院していたこととからして、彼女はその時妊娠し、中絶したのに違いない。 そのために声が変化したのだろう。』
なんてことも書いていた。

アイドル論みたいなのも、この頃だろうか?

そのころから、雑誌に写真が載れば一応は見るけれど、時事的な話などが雑誌に掲載されてても読まなくなったな。
HPの日記も、かなり初期は目を通していたが、すぐに読まなくなった。
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