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藤原氏の紀行文は、芭蕉の「おくのほそ道」のような創作だと思う。
「旅」そのものの事実関係の記録ではなくて、「旅」を題材にした文芸という意味での創作。
残念ながら随伴した人の書いた「曾良日記」のようなモノが無いけれど。

ちなみに、私は西原理恵子・鴨志田穣の紀行文やタイ滞在記が大好きだ。
華僑と印僑との戦いとか、アジアで煮詰まった日本人達とか、ともかくいろいろ大爆笑できる。
藤原氏の紀行文では見えないものも有る。

で、まぁ、1964年生まれの鴨志田氏はカメラを買ってタイに渡り、紆余曲折を経て現在「エッセイスト、フリージャーナリスト、カメラマン」と呼ばれるようになるわけだが…

60年代後半から若者の世界放浪ブームというのが、根強くある。
宗教的なものを求めたり、革命運動のためとか、自分探しというのも大きな動機の一つだろう。
藤原氏がメジャーになってから以降は、「第二の藤原を目指せ」みたいな、写真を撮って紀行文を書こうとする若者が確実に増えたように思う。 また雑誌社もそういう人を求めていたような気がする。
イタリア留学経験のあった坂東真砂子氏も、そういう流れのなかで、旅行ライターになったはず。

藤原氏が取材旅行するときは、どうやっているのだろうか?
現地の案内役や助手に、いわゆる目のでない煮詰まった鴨志田氏のような人物を探して、雇っているのではないのか?
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黄泉の犬 黄泉の犬
藤原 新也 (2006/10)
文藝春秋

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やっと読了。
とりあえず簡単な印象だけメモ。


第二章の「インタビュー」はほとんど後から書き足したモノだろうな。

p254の ”ただ在る” に関しての記述でサルトルを連想。
そうしたら p288 で ”それ、サルの研究者ですか”

なるほどなぁ。 芸大の先生がサルトルを読むように勧めた気持ちが、わかる。
藤原氏は、結局今に至るまでサルトル等は読んでいないのだろうか?

高校時代に「学生運動」挫折、恩師の転任。フムフム

「ゴリラが消える」での芸大時代のことも興味深い。
んん… いかにも田舎出の芸大生が、当時の海外アートシーンを夢見て、突っ張ってた感じを彷彿とさせる。

インドでの最初の写真は、自分の足跡の記録(文字通り)。
現地役人の証明書を付けて、画廊へ売り込もうとしていた。
60年代っぽい。

オウムの熊本県波野村進出を「故郷に錦を飾る」というような文脈で捉えているみたいだ。
自身の「故郷喪失」体験と重ねすぎているのではないか?

「盲目となる恐怖と怒り」を重視しているようだ。
目が見えるのに盲学校に「捨てられた」、という事に関しては、触れられていないな。

…というか、そもそも第1章は10年前の取材に加筆したものだけれど、その後の調査とか新事実などは追いかけていないのではないのか?


全体の印象は、「藤原新也物語」の中に「オウム真理教物語」が組み込まれている「創作」、または再構成された記憶。
とりあえず、経過を記録。

『日常生活を愛する人は?』-某弁護士日記 に書評がエントリーされる

2006/11/28 「備忘録 麻原彰晃の誕生」
http://sky.ap.teacup.com/takitaro/332.html
2006/11/29 「備忘録 黄泉の犬」
http://sky.ap.teacup.com/takitaro/333.html

藤原新也氏のサイトを見に行った。 関連するエントリー

Shinya talk
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20060831
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20061027
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20061114
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20061119
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20061130

これらを読んで以下のエントリーを書いた

最近のオウム研究本の事実関係論争
http://belena.blog70.fc2.com/blog-entry-238.html
オウム擁護のレトリック
http://belena.blog70.fc2.com/blog-entry-239.html

田口ランディ氏の書評を読む

黄泉の犬 藤原新也
http://runday.exblog.jp/4953124/

衝撃的な素晴らしい本だった。



それを踏まえて、こう書いた。

【書評】麻原彰晃の誕生 / 高山 文彦
http://belena.blog70.fc2.com/blog-entry-277.html
「田口ランディはさらに『黄泉の犬』での水俣病への視点を絶賛している。」

そうしたら田口氏からのご返事かしらん?

わからないことは、わからない。
http://runday.exblog.jp/5227501/

以前に、藤原新也さんの「黄泉の犬」について書いたが、それに対してある方が「田口ランディは、水俣病と麻原彰晃を結びつける視点を絶賛している」

と、指摘している。そのことにうんざしているらしいが、これは間違いだ。
この点に関して、絶賛などしていない。
でも、そのような視点をもつことの意味も考えていいと、思っている。

先日も、藤原さんとお会いしたときに私が言ったのは、
「麻原彰晃と水俣病を結びつけると、あまりにもうまく噛み合いすぎて気持ちが悪い。なにかひっかかるが、なにがひっかかるのか自分でもまだよくわからない。このことはもっと考えてみる必要があると思っています」
 ということだった。
 
 たとえばこの方の、「絶賛」という言葉の選び方に、なにかとても偏見を感じる。
 だから、そうではありません、と、はっきりと言っておく。



滝本太郎弁護士が「黄金の犬」に関してのことを藤原新也氏にメールをしたそうです。

藤原新也さんに
http://sky.ap.teacup.com/takitaro/351.html



ふ〜む 「偏見を感じる」なぁ

確かに私は、Shinya talkの「コマーシャルはやらないという方針」などという記述を読むと、思わず「パルコで売れて、サントリーと喧嘩して名をあげたくせに」と茶々を入れたくなるような人ではある。
藤原新也オフィシャルサイト
http://www.fujiwarashinya.com/

彼のことを書こうとオフィシャルサイトのプロフィールを読んで、ちょっと驚いた。 「〜藤原新也物語〜」という読み物になっていて、最後に(文責・相川大介)とある。 つまり、自分で書いていない。 
自伝小説「鉄輪」(1999年)や他のエッセイからの引用がメイン。 旅する作家の物語を他人に書かせ、自サイトにプロフィールとして載せている。
自伝ではなく自伝小説からの情報なので、「事実」ではなく「本人の感じた事実」なのだろうな。

藤原氏のエッセイ・ルポ・旅行記は80年代頃は、そこそこ読んでいた。
「乳の海」あたりまでかな。 その後は、あんまり読んでいない。 自伝小説を書いていたのも知らなかった。

旅館の息子だったころの思い出については、読んだことはある。
高校・大学、そしてインドに旅立つあたりのことは断片的にしか知らないのだが…

「旅立ち」http://www.fujiwarashinya.com/profile3.html
「かなり省略した自伝小説」という印象。

高校の美術部、大学で描いた絵についてはどこかのインタビューで答えていたと思うが…。
芸大入学については『そしてある日、高校時代に絵をやっていたことを思い出し、仕事のかたわら絵の研究所に通 い、東京芸大の油画科に入学する。』とある。 かなり脚色してる様に感じる。 本当に「ある日」だったのか? 高校時代から芸大を目標としていたのではないのか?
何故絵をやめて写真を撮るようになったか、旅行記を書くようになったわけ、どうやって売り込んだか、等は綺麗さっぱり省略されている。

1970年代のアサヒグラフで、メジャーデビューということになるのかな?
その当時のことを松岡正剛氏が回想している。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0160.html

 その藤原を写真界は無視した。
 藤原新也は、当時キラ星のように並び称されていた写真家、たとえば森山大道・篠山紀信・森永純・横須賀功光・荒木経惟・立木義浩・十文字美信・田村シゲルらとは同列には見られなかった。せいぜい“文章が書けるドキュメンタリーな写真作家”とみなされ、誰もその写真を論じなかった。のちにぼくが「カメラ毎日」で対談したことと、のちに石岡瑛子がパルコで「ああ原点」の写真家として起用したことが、唯一の例外だった。
 藤原も写真界を無視した。


「たとえば」であげられている写真家の半分(以上)は広告界の人だ。
「写真界」??という括りで取り上げるには、なんだか微妙な人選だ。(そもそも「写真界」なるモノがあったのか?)
70年代初めは、ジャーナリズムとコマーシャルとルポライターとの間で写真雑誌は揺れていたような気がする。
カメラ毎日の名物編集長山岸章二がやめたのが1977年。
70年代半ばだと、広告で稼いだ写真家らが、作家性を前面に出した難解な写真(?)をカメラ雑誌に発表していたように思う。 そんな難解な写真が多かったから、写真誌は影響力を失って衰退したのかも…、という印象があるのだがなぁ。 それに、当時(今も?)写真評論家と名乗っていた人は、片手で数えられたのではないか? ちなみにカメラ毎日は1985年廃刊。

パルコを「唯一の例外」などど松岡氏は書くが、パルコの広告に抜擢される方が、写真雑誌に掲載されるよりも凄いことだった。
あのころのパルコとサントリーは、雑誌なんかより遙かにメジャーで強力なインパクトがあった。

FOCUS連載は最初は1年の契約だったらしいが、6回で打ち切り。
その間の事情は「東京漂流」に書かれているが…
金属バット両親殺害事件の家、深川通り魔殺人事件犯人護送写真が印象に残っている。
「軍司のパンツはグンゼ」というは、彼が最初に指摘したはず。その後ビートたけしが深夜放送でネタにして広がった。

「人間は犬に食われるほど自由だ」事件でFOCUSの連載は終わる。
この写真自体には、それほど私は衝撃は感じなかった。 
サントリーならばこういう広告もありだろうとも思ってたし、逆にサントリーが怒ったらしいという事に、変に割り切れないモノを感じたりしていた。 
「東京漂流」を読んだ後も、なんだか真相とは遠いようなモヤモヤが残ったかなぁ…

藤原氏の問題の写真そのものは、1971年の撮影らしい。
死体写真は、ベトナムの戦場写真で巷に溢れていた。 マンガ「デビルマン」の残酷描写だって1972年。 スプラッタ映画も流行っていたかな?
方丈記は高校の教科書に載っていた。 
餓鬼草子や九相図のことも知っていたし、メメントモリという言葉だって知っていたから、あの写真や文章には違和感がなかった。
というか、ちょっとクサイ、というか、あざとい感じもしたなぁ。

あの写真がそれなりに受け入れられたのは、「インドだったから」という気もする。
チップ強要、ペテン、詐欺、窃盗、寺院参拝や川での水浴びに浮身をやつす人々、修行者ばかりのインドでは、そういう事もあるのだろうな、という感覚。

インド人は犬に食われるほど自由だ

というコピーだったら、どうなっていただろうか?

ベネトンが1994年にボスニア兵の血染めの衣類を広告にした。 この広告の方が、私には衝撃だった。
「悠久の時を生きるインド人」ではなく、ユーゴスラビアという文明人、現代の隣人をより強く感じさせる広告だった。



以下は、餓鬼草子・九相図や写真なので注意
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