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最近話題になっていると思ったら、朝日新聞が発端だったのだな。

1月1日付け朝日新聞の記事での定義

今、25歳から35歳にあたる約2千万人は、日本がもっとも豊かな時代に生まれた。そして社会に出た時、戦後最長の経済停滞期だった。「第2の敗戦」と呼ばれたバブル崩壊を少年期に迎え、「失われた10年」に大人になった若者たち。「ロスト・ジェネレーション」。第1次大戦後に青年期を迎え、既存の価値観を拒否した世代の呼び名に倣って、彼らをこう呼びたい。



去年の8月に、わたしも一応その話題を書いてたりする。
鳥越氏の世代観とは
「戦争を知らないこども達」を知らない子供達。「団塊ジュニア」とか言われて、10代の頃からいろいろ論じられてきた世代。 人口が多いから商売のターゲットにもされた世代。

という認識。

この世代は、以前にも別の呼び方で論じられたような気がするなぁ。
雇用問題のみに絞ったように見える朝日新聞の定義ってのは、中途半端だなとは思う。
あっという間に「死語の世界」逝きかも。

ちなみに中国での「失われた世代」は、文革の時代に下放(農村に配属)されたり、勉学の機会を奪われた世代。現在 50才代。
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映画「ダーウィンの悪夢」に類する騒動は70年近く前から有ったのだなぁ、などと思ったので、全文引用してみる。
一九四〇年に書かれた小熊秀雄の評論です。 
(以下 改行は引用者)




  近頃の感想  ――ガンガデインに就て

 映画はあまり見ない。さういふものを見てゐる時間が惜しいし、それに忙しいから。もう一つの映画を見ない理由のうちには、期待して観に行つてガッカリさせられることが多いので、殊に日本映画に対する、失望感は私にとつては濃いものがある。それでゐて外国映画であれば、妙に愚劣な映画の筋のものでも面白がつて見る。画面から受ける迫力が、どうしても外国のものの方が、人間的なものに感じられる。俳優そのものもカメラにぶつかつてくるやうな、緊迫感と圧力がある。ところで日本映画は、いつも書面[#「畫(画)面」の誤記と思われる]がだぶだぶ[#「だぶだぶ」に傍点]にダルんでゐて、画面と観客の中間を、空々しいものが流れてゐる感じだ。

ガンガデインといふ映画が封切られるといふので、是非見たいものだと思つてゐた。その興味をそそつた理由とは、場面が印度であることと、英国の守備兵と、印度土匪との闘争映画だからで、これに類したものを私は何か見たやうな記憶がある。今度のガンガデインはなかなか大掛りなもので、原作が詩人のキプリングのものだといふので一層興味を感じてゐた。

ところが在京の印度人団体から、ガンガデインは印度人を非文明視し、侮辱的な映画であるからと、当局にむけて上映反対運動をしたとかでとうとう上映をしないことになつてしまつた。私はがつかりした。同時に癪にもさはつた。考へてみるところ このガンガデイン上映反対の在京印度人の団体などは、実に形式的な団体のやうに考へられる。何故堂々と上映された上で、団体の意思を発表するといふ方法をとらなかつたのだらう。日本人が全く批判力をもたない国民であるかのやうに、横槍をいれて上映を禁じようとし、またそれに甘く応じて上映しなかつたといふことも今後もあることだと考へものだ。今後は印度人のでてくる映画は、みな在京印度人の団体に横槍を入れられて、当局者は遠慮するであらうが、映画はそれでいゝとして、日本人の書いた印度旅行記がどんなものであるか、一度印度人は眼を通してみたらいゝのである。

 私は印度の対英関係に興味があるので、いろいろと印度旅行記を読んでみたが、この旅行記の限りでは、どうも印度をお世辞でも文明人と見ることができないのだ。手近なところで、「世界地理風俗大系」を見てもわかる。専門の印度旅行記に至つては、チップ強要、ペテン、詐欺、窃盗の危険区域を旅行するときのやうな注意が書かれてゐる。

 印度人にも種類があらう。またさういふ旅行記は、頭から信用はしない。独立運動のあることも知つてゐる。しかし独立運動が旺んでもあらうが、寺院参拝に浮身をやつす印度人の数の方がまだ多いことは確からしい。ガンガデインなどといふ、映画の上映禁止の運動で、在京印度人が、団体のケチな動きをみせるよりも、もつと大きな動きといふものもありさうなものである。ガンガデインでは英国の三人の軍曹の英雄的行動が主で印度人土匪の反乱を扱つてゐるわけだが、勿論、筋は土匪の敗北で結んでゐることは見なくてもわかつてゐる。印度人団体がこの映画上映を反対とする理由が、もし印度人はすべて文化人であつて、英国に反乱せずといふのであつたらまだ話がわかつてゐる。何故なら、さういふ意味での文化的印度人は少くないらしい。

私がガンガデインを見たい心理は、それがトリックであらうが、刈り集めのヱキストラであらうが、非文化的な印度人土匪であらうが、素朴な叛乱などといふ形式に於いて、英国人に反撃を加へてゐる印度人の姿を見たかつたからにすぎない。ガンヂーの運動は、この映画の土匪の叛乱などに較べたら、ずつと紳士的で文化的なものかもしれないが在京印度人団体が、一本や半本の印度人の出てくる映画に横槍をいれて、それを禁止させても、どうにもならないやうな印度の実情といふものが、日本人に案外に知られてゐるのではあるまいか。

印度旅行記の各種や、反英運動の歴史、ガンヂー伝の類もずいぶん色々出版されてゐるし、古本屋の棚の隅から「コンミュニズムから見たガンヂーの運動」などといふ本も出てくる事がある。日本人の印度観察は「コンミュニズム」云々などといふガンヂー批判の本が出てゐる程に、一応は印度批判の底も衝いてゐるのだといふことを、在京印度人団体は考慮に入れる必要があらう。

我々の望むところは、日本の対英関係がかういふ状態の折であればこそ、在京印度人団体などが、機会を得たものとして、それこそ印度の実相を日本に知らせる唯一の機会として、何もかも洗ひざらひ真の印度人の心を語るべきだと思ふ。印度人が全部文化人であるかの印象を、日本人に与へることばかりが仕事ではあるまい。我々の知りたいのは、文化人としての印度人と、また非文化人としての印度人なのである。一方を掩ひ隠したところの印度人ではない。

印度や、フィリッピンの独立は我々の関心事であるが、印度人にせよ比島人にせよ、いささかの文化性によつて、もう何もかも成就せりといふ考へに陥るといふ危険も伴ふ。これらの統治者たちが、一段と高いところにあつて、何段も高い文化的策謀の眼を下の方に投げかけてゐるといふ場面も想像できるのである。



http://gaku2003.hp.infoseek.co.jp/CHIHEI/OGUMA/ESSAY/ESSAY-40.html#ANC5

青空文庫の作家別作品リスト:No.124 小熊 秀雄
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person124.html
宮本百合子の手紙を、何となく読んでこんな記述を見つけた。(読みにくいので適当に改行)

一九四四年(昭和十九年) 六月十一日

 ガンサーの本、ガンジーの伝のところ、面白くガンジーの自伝というものをよみたいと思います。聖書的率直さと天真爛漫さだそうです。ガンジーが、肉体の欲望を支配する力を得ようとしていろいろ努力して、四十年来成功しているそうですが、このひとはトルストイのように、自分の目的達成の困難さを、女のせいにしていかめしくかまえもしないし、ストリンドベリーのように、妙に精神的にひねくれもしないし、キリスト教徒でない、自然さがあるらしくて、そんなことも面白いと思います。

十五歳で十歳の妻と結婚したのだそうです。北の生活の中では、わからない人間成長と性の問題のくいちがった様相があるわけです。インドでは体が、果物のように熟してしまうのね。精神は生活経験の蓄積の時間が入用ですから、体にまけて、萎えて、未成長のまま早老してしまうのでしょう。インドの聖人たちが、みんな肉体の支配について巨大な意力を動員しなければならないのは、実際の風土に対する人間的プロテストなのね。自然におけるそういう条件への抵抗と、イギリスというああいうガンコな壁への抵抗で、インドの人々の生活は、意力あるものは極めて強靭な意力を要するのでしょう。

ガンジーは、ゴムのような男の由、堂々たるヨーロッパ人が大汗でおっつけない程迅く、やせて軽い体を一本の長い杖をついて運ぶ由。ガンジーの矛盾だらけ、不思議な素朴さ(経済問題について)は、即ちインドの一般生活のおそるべき低さと比例する困難さに応じたものであるというのは、興味をうごかされました。糸車も漫画に描くよりはインドとして意味があるのですね、いろいろ感じました。

ガンジーのつよさ、力の諸源泉、そのコムビネーションについて。キリスト以来というのは或は当っているかもしれません。インドには、全く、「いわれなくしていやしめられたる者」が充満しているのですものね。ガンジーの秘書をしているのはミス何とか云ってイギリスの海軍大将の娘の由。ミス一人の良心で、イギリスの歴史を償おうというのは、荷が重すぎるでしょうね。


「十二年の手紙」より
http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card33192.html



ガンジーの矛盾だらけ、不思議な素朴さ(経済問題について)は、即ちインドの一般生活のおそるべき低さと比例する困難さに応じたものであるというのは、興味をうごかされました。

ここあたりの記述は、ノーベル賞のマイクロクレジットにすんなり繋がっていくように感じる。
フリードマン「フラット化する世界」に描かれるインドにも、繋がると思う。

1960年代後半70年代初めの、政治闘争に背を向けインドに渡った人達は、こういた古くからの共産党のインドへ視線には関心は無かったようにも見える。

1960年代後半に世界的にブームになった、ヒッピーのインド放浪とは、いったい何だったのだろうか?
単純に、簡単にドラッグが手に入ったからなのか?
時間が止まっている国だとか、宗教・民衆・マハラジャ・宗教ばかりで語られていたという印象の方が強い。



JB tribute
JBのライブにマイケル・ジャクソンとプリンスが乱入するYouTube映像。
マイケルとプリンスが絡んでいる場面はないけれど、同一ステージにいたとは、ちょっと驚き。
JBに指名されたら、断れないよな。
http://www.youtube.com/watch?v=No9N7WKQlqc

 今ふっと気がついて奇異の感にうたれました。十二月二十五日と云えばクリスマスでしょう、いろんな国々では前線でさえ何かの形でお祝いして居るわけです。ディケンズは、クリスマス・イーヴに鳴る鐘の音で、因業おやじさえ改悛すると考えましたし、人々は其をうけ入れました。わたしたちのぐるりにあるこの静寂はどうでしょう。時計のチクタクと田端の方の汽車の音だけ。それに私がこうやって話しているペンの音と。日本はキリストの誕生にも煩わされていません。ニイチェならよろこんだでしょうね。


一九四三年(昭和十八年)十二月二十五日 
〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕より
宮本百合子「十二年の手紙」

http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card33192.html
wikipedia 宮本百合子



1944年になると、そろそろ防空訓練とか防空壕の修理にでかけたという記述が出てくるけれど、このころは生活のこと子供のこと等の記述も多い。

 ちょっと前、バブル以前はクリスマスを祝うことより、年の瀬をどうしのいで正月を迎えるか、大掃除の計画のほうが重要だったよなぁ。

ニイチェは悲しんでいるだろうか w


手紙の続き(ナポレオン時代の事など)
 
ネット参拝は是か非か、初詣で前に揺れる神社界(2006年12月16日14時32分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061216it04.htm

インターネットの神様は、学問の神様でもあり雷神(電気と光)の神様でもある天神様、菅原道真公ではないだろうか。



レ・ミゼラブル 少女コゼット
レ・ミゼラブル 少女コゼット

公式サイト
http://www.nippon-animation.co.jp/lesmise/
予告編
http://www.nippon-animation.co.jp/lesmise/site/next_movie.html

予告編のバックに笠原弘子の「空へ…」が流れていたのが、嬉しかったりする。

ロミオの青い空OP「空へ…」

心のblue sky 翼で 自由に 飛びたい
はるかな blue sky 空は明日へ 続いている

笠原弘子は歌手・声優であるのだが、オタじゃない人には『「ローマの休日」のヘプバーンの声の吹き替えした人』と説明するようにしている。


それはともかく、新作の絵柄を見て、かなり動揺した。 
某所でスタッフについての情報が有った。 確かに、実力派・くせ者揃いではあるようだが…

338 名前:名無しさん@恐縮です[] 投稿日:2006/12/17(日) 13:09:11 ID:wNMTu44/0
キャラデザ:「渡部はじめ」の知名度がこれほど低かったとは…
一見ロリ風の絵柄の中で、洒落にならない深刻なハナシを作監し続けてきた、大地丙太郎一派の大ベテラン中の大ベテランだぞ
「姫ちゃんのリボン」の名作ぶりを知らないのか?

佐藤弘明も実力派中の実力派監督。これまた大地丙太郎一派。(名塚佳織もそう)

そしそして金春智子なぞ、アニメシナリオライター中でも大物
押井版TV「うる星やつら」の面白かった回は、大抵、伊東和典か金春智子だ
タッチ、めぞん一刻、ダーティペア、マスターキートンなど著作は限りない
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%98%A5%E6%99%BA%E5%AD%90

386 名前:名無しさん@恐縮です[] 投稿日:2006/12/17(日) 13:22:47 ID:wNMTu44/0
>>341
金春智子脚本の
「一休さん」「Dr.スランプアラレちゃん」「花の子ルンルン」「魔法のプリンセス・ミンキーモモ」「じゃりん子ちえ」「NANA」「のだめカンタービレ(アニメ版未放映)」
のいずれかくらいは、世界名作劇場世代ならば知っておろう

あ、「渡部はじめ」→「渡辺はじめ」


426 名前:名無しさん@恐縮です[] 投稿日:2006/12/17(日) 13:37:29 ID:wNMTu44/0
すまん
佐藤弘明→桜井弘明
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E4%BA%95%E5%BC%98%E6%98%8E

>>395
とりあえず大地丙太郎一派は、自キャラを残虐に殺してしまう描写を、TV媒体でもしてくる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%93%E3%81%AB%E3%81%84%E3%82%8B%E5%83%95

俺は、桜井弘明監督ならば、BSフジで観る


原作は19世紀初めの激動のフランスを背景とした超大作。
この時代のうんちくを語るときの、ネタが豊富。
現在の岩波文庫では4巻、新潮文庫では5巻。 読み通すのがつらいが…


松岡正剛の千夜千冊『レ・ミゼラブル』ヴィクトル・ユゴー
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0962.html

詳しい読書メモです。

『レ・ミゼラブル』覚書
http://www.actv.ne.jp/~yappi/tanosii-sekaisi/10_theme/10_06lesmiserables/10_06lesmiserables_index.htm


ディケンズ「二都物語」がフランス革命にいたるまでの物語、その後の物語が「ああ無情」という感じかな。

ジャン・バルジャンの脱出経路
ジャン・バルジャンの脱出経路
岡並木・舗装と下水の文化(論創社・1985)より

…過去の罪を執拗に追求される男の物語だったりするが…

ちなみに宝塚は革命的である

宝塚の舞台の題材に、この時代のフランスはよく取り上げられる。
フランス革命だけではなく、各時代・地域の革命や民衆の抵抗などがよく取り上げられている。
ベルばらだけじゃぁ無い。 思いつくところでは…
「二都物語」「愛あれば命は永遠に―ナポレオンとジョセフィーヌ―」
「遙かなる旅路の果てに」「オルフェウスの窓」はロシア革命が背景

2005年雪組「霧のミラノ」は、オーストリア占領下のミラノを舞台にイタリア青年貴族の支配への抵抗、友情そして恋を描いた物語。

日本の革命勢力は、宝塚を手本にしきゃ成功しないだろうな。
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