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 芸術によつて「名」のみを得たものが一番多い。
「恋」を得たものも少くない。
「富」を得たものは、数へるほどしかない。

 自分の作品を「金」に代へることは、一つの方便である。芸術的制作品が、他の商品の如く、需要供給の法則に従つて、それ自身一つの価格を生じるといふのは社会的錯覚である。故に、機会さへあれば、芸術家は、その労力の報酬としてゞなく、単に、作品の唯一無二なる特性によつて、その作品を「利用」するものに対し、如何に多額の謝礼を要求しても差支へない。――とまあ、これが原則だと思つてゐればいゝ。

 実際問題として、芸術家は、その所謂「脱俗振り」によつて自ら高しとすることは勝手であるが、さういふ風潮を招くやうな対他的手段を廻らす必要はない。「金銭のことを口にしない」ことは、「金銭のことを問題にしない」ことにならないのみならず、却つて問題にし過ぎてゐるのかもわからない。

 ロダンは、自分の作品を一銭でも高く売ることにあらゆる根気と算段とを惜まなかつたと伝へられるが、これを以て芸術家としてのロダンを侮蔑する一部の人々に私は与することはできない。

 現代に於て、「清貧」といふ言葉は通用しないやうである。「清富」といふ言葉が永久に意味をなさないやうに。

 軍隊の本に「将校は社会の上流に位し」とか、「国民の模範となり」とかいふ文句があつたと記憶するが、文壇の本にも「文学者は時代の先駆にして」とか、「人類の生活を指導し」とかいふ文句があるらしい。
 その点、剣と筆とは共に誇大妄想狂を作ると見える。そして、その誇大妄想狂は、共に蓄財を卑め、借金を恥としない。
 剣を捨て、筆を取り、蓄財を心掛けて、借金に苦められるのも亦故なりと云ふべしである。呵々。



岸田國士が1926(大正15)年に書いた文章。
一握りのスター以外は、誰も儲かっていないような気がする今日この頃。

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今境内の民皆治を言ひ、商・管の法を蔵す者、家ごとに之有り。
而れども国愈ゝ貧し。
耕を言ふ者衆くして、耒を執る者寡なければなり。
境内皆兵を言ひ、孫・呉の書を蔵す者、家ごとに之有り。
而れども兵愈ゝ弱し。
戦ひを言ふ者多くして、甲を被る者少なければなり。

故に明主は其の力を用ひて、其の言を聴かず、
其の功伐を賞して、無用を禁ず。
故に民死力を尽くし、以て其の上に従ふ。

夫れ耕の力を用ふるや労なり。
而れども民之を為すは、曰はく、以て富を得べければなり。
戦ひの事たるや危し。
而れども民之を為すは、曰はく、以て貴きを得べければなり。
今文学を修め、言談を習ふとき、則ち耕の労無くして、富の実有り、
戦ひの危き無くして、貴きの尊有れば、則ち人孰か為さざらんや。
是を以て百人智を事として、一人力を用ふ。
智を事とする者衆ければ、則ち法敗れ、
力を用ふる者寡なければ、則ち国貧し。
此れ世の乱るる所以なり。

故に明主の国は、書簡の文無く、法を以て教へと為し、
先王の語無く、吏を以て師と為し、
私剣の捍無く、首を斬るを以て勇と為す。
是を以て境内の民、其の言談する者は必ず法に軌し、
動作する者は之を功に帰し、勇を為す者は之を軍に尽くす。
是の故に事無ければ則ち国富み、事有れば則ち兵強し。
此れ之を王資と謂ふ。
既に王資を畜へて、敵国の釁を承く。
五帝を超え三王に侔しからしむは、必ず此の法なり。



韓非子 五蠧第四十九より




日本語訳/通釈

今、国内の民はみな政治を論じ、商鞅・管仲の著書を持っている者が、一家に一人はいる。
しかし国はさらに貧しくなっている。
農業を論ずるものは多いが、すきを取って実際に農業に励む者が少ないからである。
国内の民はみな軍事を論じ、孫子・呉子の著書を持っているものが、一家に一人はいる。
しかし軍はさらに弱くなっている。
軍事を論ずるものは多いが、装甲をつけて実際に戦う者がすくないからである。

だから明主は民衆の労働力は使うが、その意見は聞かず、
その功績は賞すが、無用な議論は禁じる。
かくして、民衆は死力を尽くして、君主の命令に従うようになる。

そもそも耕作や肉体労働は骨の折れるものである。
それなのに、民衆がこれをするのは、そうすることで富を得ることができるからである。
戦争のこととなると、非常に危険なものである。
それなのに、民衆がこれをするのは、そうすることで位を得ることができるからである。
ところが、今、文章や学問を修め、弁論を磨いているとき、
耕作する骨折り無しで富と言う実益を得ることができ、
戦争の危険無しで位を得て出世することでできるなら、
だれが、学問を修め弁論を磨こうとしないだろうか。
かくして、世の中は百人が知識の仕事をし、一人だけが肉体労働をしているという様相を示すようになる。
知識の仕事をする者が多ければ法律が破られ、肉体労働をする者が少なければ国が貧しくなる。
これが世の中が乱れる理由である。

だから明主の国では、人々は民間の書籍を持たず、法律を教えとし、
古代の賢王の言葉は伝えられず、役人を師とし、
勇猛さは私闘に発揮されず、敵兵の首を斬ることが勇敢とされる。
かくして、国内の民は、議論をするときは法律に従うようにし、
肉体労働は国に対する功績となるようにし、
勇気は軍のなかで発揮するようにする。
このため、平時には国が富み、有事の際にも、軍が強い。
こういうとき、こういう状態を「王資」という。
王資を十分に蓄えて、敵国の隙に乗じる。
五帝を超える徳を身に付け、三皇に並ぶ功績を果たすには、この方法を用いるしかない。




今境内之民皆言治、蔵商管之法者、家有之。
而国愈貧。
言耕者衆、執耒者寡也。
境内皆言兵、蔵孫呉之書者、家有之。
而兵愈弱。
言戦者多、被甲者少也。

故明主用其力、不聴其言、
賞其功伐、禁無用。
故民尽死力、以従其上。

夫耕之用力也労。
而民為之者、曰、可得以富也。
戦之為事也危。
而民為之者、曰、可得以貴也。
今修文学、習言談、則無耕之労、而有富之実、
無戦之危、而有貴之尊、則人孰不為也。
是以百人事智、而一人用力。
事智者衆、則法敗、
用力者寡、則国貧。
此世之所以乱也。

故明主之国、無書簡之文、以法為教、
無先王之語、以吏為師、
無私剣之捍、以斬首為勇。
是以境内之民、其言談者必軌於法、
動作者帰之於功、為勇者尽之於軍。
是故無事則国富、有事則兵強。
此之謂王資。
既畜王資、而承敵国之釁。
超五帝侔三王者、必此法也。
往古之時,四極廢,九州裂,天不兼覆,地不周載,火爁炎而不滅,水浩洋而不息,猛獸食顓民,鷙鳥攫老弱,於是女媧煉五色石以補蒼天,斷鼇足以立四極。殺黑龍以濟冀州,積蘆灰以止淫水。蒼天補,四極正,淫水涸,冀州平,狡蟲死,顓民生。背方州,抱圓天,和春陽夏,殺秋約冬,枕方寢繩,陰陽之所壅沈不通者,竅理之;逆氣戾物,傷民厚積者,絕止之。當此之時,臥倨倨,興眄眄,一自以為馬,一自以為牛,其行蹎蹎,其視瞑瞑,侗然皆得其和,莫知所由生,浮游不知所求,魍魎不知所往。當此之時,禽獸蝮蛇,無不匿其爪牙,藏其螫毒,無有攫噬之心。考其功烈,上際九天,下契黃壚,名聲被後世,光暉重萬物。乘雷車,服駕應龍,驂青虯,援絕瑞,席蘿圖,黃雲絡,前白螭,後奔蛇,浮游消搖,道鬼神,登九天,朝帝於靈門,宓穆休於太祖之下。然而不彰其功,不揚其聲,隱真人之道,以從天地之固然。何則?道德上通,而智故消滅也。逮至夏桀之時,主暗晦而不明,道瀾漫而不修,棄捐五帝之恩刑,推蹶三王之法籍。是以至德滅而不揚,帝道掩而不興,舉事戾蒼天,發號逆四時,春秋縮其和,天地除其德,仁君處位而不安,大夫隱道而不言,群臣准上意而懷當,疏骨肉而自容,邪人參耦比周而陰謀,居君臣父子之間,而競載驕主而像其意,亂人以成其事。是故君臣乖而不親,骨肉疏而不附,植社槁而墵裂,容台振而掩覆,犬群嗥而入淵,豕銜蓐而席澳,美人挐首墨面而不容,曼聲吞炭內閉而不歌,喪不盡其哀,獵不聽其樂,西老折勝,黃神嘯吟,飛鳥鎩翼,走獸廢腳,山無峻幹,澤無窪水,狐狸首穴,馬牛放失,田無立禾,路無莎薠,金積折廉,璧襲無理,磬龜無腹,蓍策日施。




ウィキペディアの解説


『淮南子』「覧冥訓」には、女媧が天下を補修した説話を載せている。古の時、天を支える四極の柱が傾いて、世界が裂けた。天は上空からズレてしまい、地もすべてを載せたままでいられなくなった。火災や洪水が止まず、猛獣どもが人を襲い食う破滅的な状態となった。女媧は、五色の石で天を補修し、大亀の足で四柱に代え、黒竜の体で土地を修復し、芦草の灰で洪水を抑えたとある。
昭和十九年十二月三十一日

◯一昨夜、敵三回目の空襲には油断があったらしく、両国、柳橋辺がちょっと燃えた模様。
 もっとも、あのときは前に警報解除が出、それに情報を加えて「まだ一目標あり、警戒中」と警報したのを、警報解除に安心しすぎて寝てしまったらしく思われる。「正確なる判断」が要望される。

◯昨夜は珍しく敵機来らず。たぶんいつものように十時ごろに一回、一時ごろに第二回目、第三回は三時ごろくると思っていたのに、一回もこなかった。わが航空隊がサイパンへなぐり込みをかけた故か。それとも敵の方で歳末新年は生活に忙しいせいか。
 私は壕に寝て、暁を迎えた。壕に寝るは寒く、身体が痛い。暁前の寒さがひとしおこたえる。目下下痢気味なのは、あるいは壕で冷えたせいか。

◯酒の特配に喜びなし。酒を呑まないためだ。煙草の特配に喜びなし、煙草は吸わないためだ。正月がくるというのに、一体何の喜びがあると身辺をふりかえったのに、三つの喜びがあった。一つは去る二十七日の敵機錐もみ撃墜のこと、第二は敵米英、ことに米の生産補充陣が大消費に喘ぎだしたというニュースしきりなること、第三に家族一同無事なること。



昭和二十年十二月三十一日

◯ああ昭和二十年! 凶悪な年なりき。言語道断、死中に活を拾い、生中に死に追われ、幾度か転々。或は生ける屍となり、或は又断腸の想いに男泣きに泣く。而も敗戦の実相は未だ展開し尽されしにあらず、更に来るべき年へ延びんとす。生きることの難しさよ!
 さりながら、我が途は定まれり。生命ある限りは、科学技術の普及と科学小説の振興に最後の努力を払わん。

◯ラジオにて寛永寺の除夜の鐘の音を聞く。平和来。昨年は「敵機なお頭上に来りて年明くる」と一句したりけるが、本年は敵機もなく、句もなく、寝床にもぐり込む。



昭和二十一年十二月三十一日

◯大三十日(おおみそか)の特徴は、速達の原稿料払いが三つ四つもつづいたこと、荒木さんが印税を持って来て、これが終りであった。
 こっちも最終の払いをすませた。小為替と小切手で二万二千円ばかり、現金にて五千円ほど手許にのこった。

◯岡東浩君来宅。葡萄液と角ハムとキャンデー四つとを貰った。
 こちらはめじまぐろ[#「めじまぐろ」に傍点]で、少しばかりあった酒を出す。そしてニュージランドのオクス・タンの缶詰をあける。たいへん美味しいとよろこんでくれる。この缶詰は半年もあけずに辛抱していたものである。

◯萩原氏はこの家を売るという。財産税を支払うに金がないためであるという。この家を買ってくれと頼まれているが、四十三坪あって、値段は十五万円位と最初の噂であったが、もっとあげるつもりかもしれない。十万円ならなんとか出せると思うが、十五万、二十万では仲々たいへん、いろいろな無理な工作を要し、且つ無一文となるから、そんなに出して買いたくなし。都合によれば、はなれをのこして本屋だけを買い、家族の居住を確保しようと方針を定めた。

◯ヤミ屋と華僑とが街を賑かにして賑からしくやっているが、大多数の国民はそのそばを素通りするだけだ。恐ろしくはっきりと区別のついた別の世界がわれらの傍に出来た。こんなにはっきりと二つの世界が出現したのは始めての経験だ。松飾りも買わない正月(ヤミ屋をわざわざよろこばせてなにになるか)、かまぼこ[#「かまぼこ」に傍点]もきんとん[#「きんとん」に傍点]も街には売っているが、うちにはない正月(高いだけではなく粗悪で、とても買って来て届けられないと魚屋さんがいう)、汁粉屋だ中華料理だ酒だ何だと街には並んでいるが、そっちへは近づきもしない正月(ちがった世界の人々のために用意されたものであろう)――前の正月は、何にもなくてあっさりしていたが、こんどの正月はものがたくさんあって、しかもそれは買えないか、インチキもので手出しをすると腹がたつ、いやな正月である。昔、話に聞いた上海(シャンハイ)、北京(ペキン)やイタリヤの町風景と東京も同じになったわけである。しかし、これから先の正月は、更にそれが激化するのではなかろうか。

◯ラジオを聴きながら寝る。菊田一夫構成の「五十年後の今日の今日」の苦しさよ。そのうち除夜の鐘がなり出す、東叡山寛永寺のかねがよく入っていた。



海野十三敗戦日記 より
http://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card1255.html


海野十三は1897年生まれ。 この日記を書いたころは五十歳。妻が三十八歳、長女十六歳、長男十四歳、次男十二歳、三男が十歳、養母が六十四歳という家族構成だった。
一谷嫩軍記  組討の段

去る程に、御船を始めて、一門皆々船に浮かめば乗り後れじと、汀に打寄すれば、御座船も兵船も、遙かにのび給ふ。無官の太夫敦盛は道にて敵を見失ひ、御座船に馳着いて、父経盛に身の上を告げ知らすことありと、須磨の磯辺へ出でられしが、船一艘もあらざれば詮方波に駒を乗入れ沖の方へぞ打たせ給ふ。かゝりけるところに後より、熊谷次郎直実。「ヲヽイ/\」と声をかけ駒を早めて追っかけ来り、「ヤアそれへ打たせ給ふは平家の大将軍と見奉る。正なうも敵にうしろを見せ給ふか引返して勝負あれ。かく申す某は、武蔵ノ国の住人熊谷次郎直実見参せん返させ給ヘ」と、扇を上げて指招き、「暫し/\」と呼ばはったり。敵に声をかけられて何か猶予のあるべきぞ、敦盛駒を引返せば、熊谷も進み寄り、互ひに打物抜きかざし、朝日に輝く剣の稲妻かけ寄り、かけ寄せちゃう/\/\、てふの羽がへし諸鐙駒の足並かっしかっし。かしこは須磨の浦風に、鎧の袖はひら/\/\群れゐる千鳥村千鳥むら/\ぱっと、引汐に、寄せては返り、返りては又打ちかくる虚々実々。勝負も果てしあらざれば、「いそうれ組まん」と敦盛は打物からりと投げ給へば、「ムコハしをらし」と熊谷も太刀投げ捨てゝ駒を寄せ、馬上ながらむずと組む。「えい」「えい」「えい」の声の内、互ひに鐙を踏みはづし両馬が間にどうと落つ。すはやと見る間に熊谷は敦盛を取って押へ、「かく御運の極る上は、御名を名乗り直実が高名誉を顕はし給へ。又今生に何事にても思ひ残す御事あらば、必ず達し参らせん。仰せおかれ候へ」と懇ろに申すにぞ。敦盛御声爽かに、「ヲヽやさしき志。敵ながらあっぱれ勇士、かく情ある武士の手にかゝり死せんこと、生前(しようぜん)の面目。戦場に赴くより、家を忘れ身を忘れ、かねてなき身と知るゆゑに、思ひおくこと、更になし。さりながら忘れがたきは父母の御恩。我討たれしと聞き給はゞ、さぞ御歎き思ひやる。せめて心を慰むため、討たれし跡にて我が死骸、必ず父へ送り給はれかし、我こそ参議経盛の末子、無官の太夫敦盛」と、名乗り給ひしいたはしさ。木石ならぬ熊谷も見る目涙にくれけるが、何思ひけん引起し鎧の塵を打払ひ/\、「この君一人助けしとて勝軍に負けもせまじ、折節外に人もなし。一先づこゝを落ち給へ。早う/\」といひ捨てゝ立別れんとするところに、後の山より武者所数多の軍兵。「ヤア/\熊谷。平家方の大将を組敷きながら助くるは二心に紛れなし。きゃつめ共に遁すな」と声々に罵るにぞ、熊谷ははっとばかりいかゞはせんと黙然(もくねん)たり。敦盛卿しとやかに、「とても遁れぬ平家の運命。こゝを助かり行先にて下司下郎の手にかゝり、死恥を見せんより早く御身が手にかけて、人の疑ひはらされよ」と、西に向ひて手を合せ、御目を閉ぢて待ち給ヘばいたはしながら熊谷は御後に立廻り、弥陀の利剣と心に唱名、ふり上げは上げながら玉のやうなる御粧ひ。情なや無慚やと、胸も張裂く気後れに、太刀ふり上げし手も弱り、思ひにかきくれ討ちかねて歎きに時も移るにぞ、「アヽ後れしか熊谷。早々首を討たれよ」と捻向き給ふ御顔を、見るに目もくれ心さえ、「倅小次郎直家と申す者丁度君の年恰好。今朝(こんてう)軍の先駆けして薄手少々負うたるゆゑ、陣屋に残しをきたるさへ心にかゝるは親子の仲。それを思ヘば今こゝで討ち奉らば、さぞや御父経盛卿の、歎きを思ひ過されて」と、さしもに猛き武士も、そゞろ涙にくれゐたる。「アヽ愚かや直実、悪人の友を捨て、善人の敵を招けとはこの事。早首討ってなき跡の回向を頼むさもなくば、生害せん」とすゝめられ、「アヽ是非もなし」とつっ立上り「順縁逆縁倶に菩提、未来は必ず一蓮託生」「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」首は前にぞ落ちにける、人の見る目も恥しと御首をかき抱き、くもりし声をはり上げて「平家の方に隠れなき、無官の太夫敦盛を熊谷次郎直実討取ったり」と呼ばはるにぞ。磯に臥したる玉織姫絶入りし気も一筋に、夫を慕ふ念力の耳に入りしかむっくと起き「ナウしばし待ってたべ。敦盛様を討ったとは、いかなる人かナウ恨めしや。せめて名残りに御顔を、一目見せて」といふ声も、深手に弱る息づかひ。見るより熊谷御首携へ歩み寄り、「敦盛を慕ひ給ふはいかなる人」と尋ぬれば、今はの苦しき声音にて、「我こそは敦盛の妻と定まる玉織姫。お首はどこに。エヽもう目が見えぬ」と撫廻せば、「ムヽなにお目が見えぬとや。ヲヽいとしや/\御首はコレコレこゝに」と手に渡せば、「わっ」と泣く/\しがみ付き、膝にのせ抱きしめて消入り絶入り歎きしが、「ナウコレ敦盛様。アヽはかない姿になり給ふなう。陣屋を出でさせ給ひしより御跡したひ方々と尋ぬる中に源氏の武士、平山武者所。我を見付けて無体の恋慕、だまし討たんも女業。この如く手にかゝり、二人が二人で悲しい最期。せめて別れた御顔が、見て死にたいと思へども、深手に心が引入って、目さへ見えぬか悲しや」と又御首を撫でさすり、「宵の管絃の笛の時、後(のち)にとありしお詞が、今生後生の形見かや。この世の縁こそ薄くとも来世では末ながう、添ひとげてたべわが夫」と、顔に当て身に添へて、思ひの限り声限り、泣く音は須磨の浦千鳥涙にひたす袖の海、引く汐時と引く息の、知死期と見えて絶果てたり。熊谷は茫然と、「エどちらを見てもつぼみの花。都の春より知らぬ身の今魂はあまざかる、鄙に下りてなき跡をとふ人もなき須磨の浦、なみ/\ならぬ人々の成り果つる身の痛はしや」と悲歎の涙にくれけるが、是非もなく/\玉織の亡骸を取りをさめ、母衣をほどいて敦盛の、御死骸をあけまき押包み、総角取って引結び、手綱をたぐり結付ける鞍のしほでやしを/\と、弓手は御首、携へて、右に轡の哀れげに、檀特山(だんとくせん)の、うき別れ悉陀太子を送りたる、車慝(しやのく)童子が悲しみも、同じ思ひの片手綱、涙ながらに


一谷嫩軍記
http://homepage2.nifty.com/hachisuke/yukahon/ichinotani.html#name5





侍大将が「我こそは…」と名乗りを上げてから合戦してたのは、源平合戦くらいまでじゃなかったかなぁ。 
せいぜい太平記のころまでの「作法」のはず。
すでに平安時代末の義経は、奇襲戦法などでこの作法を無視し始めている。

元寇の時、義経の流れを汲む元軍は、日本の侍が名乗りを上げる「作法」を理解できなかった。*

戦国時代の武将は、あんまり合戦で名乗りをあげて戦ったりしなかったはずだよなぁ…

*(義経の流れ…は嘘ですw 念のため)








『保元物語』 官軍方々手分けの事

 内裏にも此よし聞えければ、同五日、めされて参る武士は誰々ぞ。まづ下野守義朝・陸奥新判官義康・安芸判官基盛・周防判官季実・隠岐判官惟重・平判官実俊・新藤判官助経、軍兵雲霞のごとく召具して、高松殿に参じけり。彼等を南庭にめされて、少納言入道をも(っ)て、去二日、一院崩御の後、武士ども兵具を調て、東西より都へ入集る事、道も去あへず、以外の狼籍也。弓箭を帯せん輩をば、一々に召取(っ)て参上すべき由仰下さる。各庭上に■て是を承る。「義朝・義康は、内裏に侯て、君を守護し奉れ。其外の検非違使は、皆関々へ向ふべし。」とて、宇治路へは安芸判官基盛、淀路へは周防判官季実、粟田口へは隠岐判官惟重、久々目路へは平判官実俊、大江山へは新藤判官助経承(っ)て向ひけり。今夜関白殿、并に大宮大納言伊通卿已下、公卿参じて、議定有て、謀叛の輩皆めしとつて、流罪すべきよし宣下せらる。春宮大夫宗能卿は、鳥羽殿に候はれけるをめされければ、風気とて参内せられず。
 明れば六日、検非違使ども、関々へ越けるに、基盛宇治路へ向ふに、白襖の狩衣に、浅黄糸の鎧に、うはおりしたる烏帽子の上に、白星の冑をき、切符の矢に、二所藤の弓もち、黒馬に黒鞍をきてぞ乗(っ)たりける。其勢百騎計にて、基盛、大和路を南へ発向するに、法性寺の一の橋の辺にて、馬上十騎ばかり、ひたかぶとにて、物の具したる兵廿余人、上下卅余人、都へ打(っ)てぞ上りける。基盛、「是は何の国よりどなたへ参ずる人ぞ。」と問せければ、「此程京中物忽のよしうけたまはる間、その子細を承らむとて、近国に候者の上洛仕にて候。」と答。基盛打むかひて申けるは、「一院崩御の後、武士ども上洛の由叡聞に及間、関々をかために罷むかふ也。内裏へ参る人ならば、宣旨の御使にうち列て参じ給へ。然らずはえこそ通し申まじけれ。かう申は、桓武天皇十代の御末、刑部卿忠盛が孫、安芸守清盛が次男、安芸判官基盛、生年十七歳。」とぞ名乗(っ)たる。大将とおぼしき者、かちん(の)直垂に藍白地を黄に返したる鎧きて、黒羽の矢負、塗籠藤の弓を持、黄川原毛なる馬に、貝鞍をいて乗(っ)たりけるが、すゝみ出て、「身不肖に候へども、形のごとく系図なきにしも候はず。清和天皇九代の御末、六孫王七代の末孫、摂津守頼光が舎弟、大和守頼信が四代の後胤、中務丞頼治が孫、下野権守親弘が子に、宇野七郎源の親治とて、大和国奥郡に久住して、未武勇の名をおとさず。左大臣殿の召によ(っ)て、新院の御方に参るなり。源氏は二人の主取事なければ、宣旨なりともえこそ内裏へは参まじけれ。」とて打過ければ、基盛百余騎の中にとりこめてうたんとしけるを、親治ち(っ)ともさはがす、弓とりなをして、散々に射るに、平氏の郎等矢庭に二人射落されて、ひるむところを、えたりやおうとて、十騎の兵轡をならべて懸たりければ、平家の兵叶はじとや思けん、法性寺の北のはづれまでぞひきたりける。


保元物語 「校註 日本文学大系」本
http://www.j-texts.com/chusei/gun/hogenall.html
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