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植垣康博の「バロン」という渾名は、マンガから

翌4日、私はバスで長野市内に行き、市内のメガネ屋でコンタクトレンズを買った。それに慣れるまで時間がかかりそうだったが、私としてはこれでメガネをかけずにすむのでありがたかった。というのは、私の指名手配写真はほとんどがめがねをかけたものだったからである。

しかし、慣れないコンタクトレンズのためにすぐに目が痛くなり、涙ばかり出た。そのため、皆が私を「潤目(うるめ)敢太郎」と呼んだ。 「敢太郎」という呼び名は、その頃流行っていたバロン吉本の『昭和柔侠伝』の敢太郎に似ているということでついたものだったが、このことから、皆は私を「バロン」と呼ぶようになったのである。


バロン吉本の『昭和柔侠伝』は双葉社のサイトで試し読みできます
http://www.comicpark.net/cat/detail.asp?sitekey=futabasha&content_id=COMC_AFT00002



総括で問題となった「パンタロン」というのが通じないかもしれない…

ジュニアコミック_1969年3月号 表紙 水野英子 画

真ん中のお姉さんがはいているのがパンタロン。 かなりサイケでフラワーですが。


【追記】
1970年 吉祥寺でキャンペーン中の藤圭子



写真はここから 1970年の音楽(jazz、ロック、アイドル等)の話と写真がいっぱい。
kiis blue 24
http://homepage.mac.com/kiis/blues/blue_24.html




前のエントリーで「樹村みのり」と書いちゃったので、ちょっと補足。


ジュニアコミック 1969年5月号「新鋭登場」のなかに、樹村みのりの名前があります。

 樹村みのりは1949年生まれで、いわゆる団塊の世代、少女マンガの昭和24年組の1人でもあることになります。この世代の漫画家の人たちが70年代の少女マンガに新しい潮流を作り、それまでの少女マンガの枠をはずしてマンガ界全体に活気をもたらし、その後の漫画に大きな影響を及ぼしていくわけですが、それは後から思えばそうだったということで、当時10代の1読者だった私にとっては単に「最近は面白くて読みごたえあって感動できる漫画が増えたなあ。」ぐらいの感じでした。

 樹村みのりは15才の1964年には既にデビューしていますが、そういった初期の頃から、戦死した父親のことを知らされる少年の心の痛みを描いた「トミィ」など、反戦テーマの作品が見られます。ベトナム戦争を描いた「海へ…」は、平和な海岸を駆ける少年の夢を描き、タルコフスキーの「僕の村は戦場だった」を思い出させます。樹村みのりの同世代感覚として、当然ながらベトナム戦争は大きな意味を持っていたのだろうと感じさせられます。
http://www.chatran.net/dispfw.php3?_manga/_kimura

(補足)「トミィ」1968年ジュニアコミック3号に掲載(リボンの姉妹誌)
「海へ…」1970年りぼんコミック9月号の掲載



60年代後半、姉や従姉が読んでいた雑誌をけっこう見ていた。 少女フレンド・マーガレット、少女コミック、セブンティーン、女学生の友…
COMに反戦マンガが載っても、それは当たり前。 普通の少女マンガ雑誌にも、一つくらいは「社会派」マンガが載っていた。 学園マンガにだって、微妙に社会情勢は反映していた。
24年組・おとめちっく登場以前は、何にも重要なことが無かったような少女マンガ史観は、ゆがんでる。
最近、ようやく発掘・評価が進んできたところだなぁ。
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