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連合赤軍関係者は、各々に読み応えのある手記を書いています。
手記を書くまで、出版するまでも、いろいろ波瀾万丈です。

まず、裁判の方針でかなり揉める。 そうこうしているうちに、1973年1月1日 森恒夫が自殺。
1975年 日本赤軍による同志奪還闘争(クアラルンプール事件)が起こる。 指名された坂東国男は出国。 坂口弘は出国拒否。
1977年8月 統一公判を共にやっていた吉野雅邦が、分離公判に廻る。
1977年9月 ダッカ・ハイジャック事件。 植垣康博が指名されたが、出国拒否。

「仲間」同士の批判・反論・再反論が激しい。 
獄外の党派とも議論しているし、かつての袂を別った旧幹部との議論もやっている。
時々、政治的アピールを、支援者を通じて雑誌に発表してた。
この当時に書かれたモノは、左翼用語満載の論文というか檄文というか…

永田と坂口は、逮捕後は絶縁状態。 このとき間に立った、というか永田をサポートする側に廻ったのが植垣康博。
植垣のサポートで、永田が手記を書くようになった。

永田洋子の「16の墓標」(1982)は、いわゆる左翼用語をなるべく排して、自身の半生を訥々と、事件を淡々と記述している。
事件関係者が、ほとんど始めて一般向けに書いた手記だった。

それを受けて、坂東邦夫の『永田洋子さんへの手紙』(1984)が出版される。

この両書は、幹部の立場から書かれたモノ。 政治路線とか、闘争方針についての記述・議論も多い。 革命左派幹部の永田、赤軍幹部の坂東という立場から、いろいろ議論・総括をしているという感じ。

植垣康博も「兵士たちの連合赤軍」(1984)を出版。 こちらは兵士としての立場で書いていて、実際の活動の具体的な話が多い。

この間にも裁判が続いているわけで、その方針で様々な対立があったりするのだが…

1993年、最高裁の上告棄却に合わせる形で、坂口弘が『あさま山荘1972』を発表。
これは、「検察のストーリーでの国策裁判は納得できない。自身で事実関係を明らかにして、自分で判決文を書く」といったような本だ。


懲役20年だった人達もこのころは出所し始めており、いろいろ故人の手記とかインタビューが発表され始める。

これは佐々淳行の著書が売れてきたのに対抗した、という側面も有る。
「東大落城―安田講堂攻防七十二時間」が1993年、『連合赤軍「あさま山荘」事件』が1996年の出版だけど、これはちょっと前からの雑誌連載をまとめたモノだったはず。

事件から30年経過したことで、当時未成年(19歳)だった加藤倫教も『連合赤軍 少年A』(2003)発表。
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